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サブカル大蔵経68「ちゃぶ台」5(ミシマ社)

 榎本俊二の漫画が読めるミシマ社の雑誌「ちゃぶ台」。今号の特集は、宗教とアナキズム。内田、松村、釈、森田、榎本以外のさまざまな地方の方々のやりとりをいかに載せられるか。

今、私たちを取り巻く環境は実態として既に無政府状態に近い。まともな感覚で生きようとすればするほど実感する。そういう時代において宗教はどういう役割を果たすのか?(巻頭言)p.1

 たしかに法の信頼がないし、もともと法がある意味がよくわからないし。

京都市内では五山の送り火も地蔵坊も盂蘭盆も踊りも全部禁止されました。京都から仏教色が一掃された時代がつい150年前にはあったんです。(内田樹)p.17

 廃仏毀釈による京都の風景。

 廃仏毀釈運動は極めて短い期間の運動で、廃藩置県になって藩の仕組みがなくなると仏教が盛り返す。お寺に住職が戻り、仏像や仏具を廃棄した人たちがそ知らぬ顔で檀家になる。この辺の変わり身の早さにも驚かされます。国は神道を重く見たわけではなく、3分の1が廃社されました。田舎に散在している格式の低いボロ神社をつぶし、生き残るエリート神社の側には異論はありませんでした。(内田樹)p.22

 寺や神社の歴史の断絶にこそ真実がありそう。

 江戸時代までの日本人の宗教活動のかなりの部分は動く宗教者によって担われていました。伝統的に日本では宗教者と芸能人は旅をするものでした。白拍子・遊女・楽人・舞人・歌人・陰陽師・狐おろし・勧進聖・説教師・山伏・六部・虚無僧など明治政府の宗教政策で真っ先に排除されたのはこの旅する人たちでした。(内田樹)p.32

 排除された人たちの方が「宗教」的。

つまり、人民がいてそこに国ができたのではなく、国が周辺の人々を強制的にかき集めることで国家が生まれたのだ。19世紀後半のチェンマイ王国の人口の4分の3が戦争捕虜だった。(松村圭一郎)p.62

 領民という存在の背景。国家という擬似家庭の虚構。

宇宙は、ビックバンによってできた。海辺の砂粒よりもずっと小さい粒に宇宙に相当するものすごいエネルギーが入っていて、それが膨張して大きくなったのが宇宙だと言う理論です。小さい粒の中に我々も、この地上で目に見えるもの全てエネルギーとして入っていた。エネルギーが我々になったわけです。科学の法則から言えば、われわれはいずれエネルギーに戻らなければならない。そうするとエネルギーだけの宇宙になってしまいます。でも現に私たちは存在しているので、エネルギーに戻らないようにするために必要なのが、反粒子です。(三田一郎)p.144

 われわれはいずれエネルギーに戻る。

ヨーロッパでは、16歳までにプレイモデル、つまり方を教え込んで、それから自由にプレイさせるんです。(岡田武史)p.175

 型の後の自由。破格。

1番大事な事は、お互いを認め合うって言うことです。こいつはどうもスカンけど、こいつに任せたら絶対止めてくれるとか、こいつはどうもそりがあわんけど、こいつに任せたら点を決めてくれるとか、そういうお互いを認め合うっていうのが、すごく大事。他人を認めない選手には忠告して、変わらなければその時点で僕は切ります。(岡田武史)p.180

 他人を認める、その一点が難しい。

これからは、地方自治体とお寺や神社が知恵を出し合って、一緒にやっていくという手もあるでしょう。お寺のポテンシャルを公的機関等がうまく活用できれば、短期間良い地域資源を発掘できると思いますね。(釈徹宗)p.204

 たしかに。派を超える必要は地方からかな?

モートン曰く、僕は無限を考えることができる。だが、百万までさえ数える事はできない。ある意味では、永遠の方が巨大な有限性よりも理解しやすい。永遠と言うと、自分が偉くなった気持ちになれる。(森田真生)p.210

 永遠って便利で嘘くさいけど、魅惑的。

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本を買って読みます。