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サブカル大蔵経420五野井隆史監修『キリシタン大名』(宮帯出版社)

 インデックスの写真は大友宗麟の印章です。宗麟の力によって、キリシタンの数は一万人を超え武士階級の割合も増えたとのことです。p.187

 大友フランシスコ宗麟、有馬プロタジオ晴信、高山ジュスト右近、小西アゴスチイノ行長、蒲生レオン氏郷、黒田シメオン孝高など、キリシタン大名は、洗礼名が併記されるのが、日本史の中でも異質な感じがして、画期だと思います。

「麒麟がくる」で僧体で描かれる筒井順慶の跡継ぎ定次も、対馬領主の宗義智もキリシタン。何と大谷刑部吉継もキリシタンだったとの史料が紹介される。大谷吉継はハンセン病だったとされるが、小西行長の父立佐(りゅうさ)が堺にハンセン病療養所を設立していてそこで治療したとの説も描かれている。p.526

 さまざまな糸が絡み合う戦国時代の中で、キリシタン宣教師は訪れたのだった。

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(日本から発信された書翰の送付経路)p.71

 スペイン・ポルトガルの宣教師がアジアには大西洋から一気に南下してアフリカまわってきていました。陸路より海路。そして空路になり、今はネットですか。

 なぜ、当時の大名たちがキリシタンになったのか、結局よくわからなかったです。

 康煕帝や信長・家康みたいに保護して西洋科学を取り入れるためではなく、改宗までするということに、なぜ至ったのか。

 宣教師たちの努力と、仏教にはない魅力がその教えにはあったはずです。キリスト教にあって仏教にないもの、それを知りたいです。それは、聖徳太子の時の仏教伝来と同じなのではないでしょうか。たまたま仏教は入り、キリスト教は禁教になった。おそらく封建制度を覆すか否かの違いか。

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1595年に岐阜城で受洗した信長の甥三法師、ペドロ秀信。p.23

 あの清洲会議の三法師が…。その後、関ヶ原で三成について高野山幽閉された。

山口きっての知識人と称された元仏僧、肥前出身の盲目の琵琶法師で、後に初期キリスト教会の柱となったロレンソがいる。p.43

 ザビエル第二次布教で改宗した人たちのキャラクター立ってる。ドラマ化希望。

すなわち、朝廷・幕府・比叡山のうち、室町幕府はキリシタンに対して好意的な姿勢を示したのである。p.105

 比叡山と天皇は否定派。「麒麟がくる」では兄弟の葛藤が描かれていましたが。

この二条城の普請現場を、宣教師ルイス・フロイスが訪れた。p.110

「麒麟がくる」で、信長と義昭が抱き合ったあの場所にフロイスが来て信長と会っていた。明智光秀とはどうだったのだろう?

オルガンティーノは、信長の要請を承諾し、佐久間信盛らとともに高山右近のいる高槻城に向かった。p.115

 信長の天下統一にキリシタンがここまで絡んでいた。それくらい右近も重要視されていたか、中国地方制覇が困難だったか。

行長にとってのキリスト教は、立佐が築き上げたイエズス会との関係を繋ぐ「政治的手段」としての側面が強かった。p.234

 小西行長という存在が一番の謎です。秀吉、三成、行長、もともと武士ではない人たちが、ある意味武士よりも武士らしい。彼らを卑下する元々の武士たちの恨みが関ヶ原だったのだろうか。

利休七哲。このうち細川と古田以外は洗礼を受けており、実に七哲のうち五人までもがキリシタンであった。また他にも利休の弟子の中からは曲直瀬道三や黒田孝高といったキリシタンが輩出されている。p.258

「麒麟がくる」で堺正章演じる医師のモデルと言われる曲直瀬道三もキリシタン!

実際に黒田孝高を受洗に導いたのは高山右近と蒲生氏郷であった。さらに蒲生氏郷と高山右近は特に千利休の高弟として知られており、当時のキリシタン人脈と茶人ネットワークが密接に関わっていたことを示唆している。p.264

 キリシタンと茶人ネットワーク!本書で一番目から鱗でした。

浅井長政の妹マリアは京極高吉の妻。その息子高次と浅井長政の娘お初が結婚。p.309

 浅井長政の立ち位置もすごいというか、もし信長にあのまま付いていたらどうなっていたのでしょうか。

キリシタン大名から棄教して、弾圧に転じた寺沢広高の事績。p.349

 島原の乱の寺沢の親か。初代唐津藩主。二代目が島原の乱を誘発し、お家断絶。

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 読んでいたら猫が寄ってきました。

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