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サブカル大蔵330青木新門『納棺夫日記』(文春文庫)

もう真宗教団は本書をお聖教に入れてもいいのでは?と思います。

蛆を掃き集めているうちに、1匹1匹の蛆が鮮明に見えてきた。そして、蛆たちが捕まるまいと必死に逃げているのに気づいた。柱をよじ登って逃げようとしているのまでいる。
蛆も生命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた。p.56

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考えてみると、今日まで毎日死者に接していながら、死者の顔を見てるようで見ていなかったような気がする。p.72

 私もどれだけの方の顔を見ただろうか。

だめでせう とまりませんな がぶがぶ湧いているですからな ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから 
そこらは青くしんしんとして どうも間もなく死にさうです けれどもなんといい風でせう 宮沢賢治「眼にて云ふ」p.78

 今年の報恩講のしおりに引用しました。

わが国の仏教の葬送儀礼様式や作法のほとんどは、死んでも死者の霊魂がさまようことを前提に構築されている。p.82

 その前提が、遺族と僧侶の噛み合わない原因だし、共有できる手がかりかも。

さっき納棺していた時、周りが泣いているのに涙が出なかったのに、卵が光るトンボを見ているうちに涙が出てきた。数週間で死んでしまう小さなトンボが、何億年も前から1列に卵を束ねて、いのちを続けている。そう思うと、ぼろぼろと涙が出て止まらなかった。p.89

 私も人より虫になぜか反応します。昨年も合掌したまま死んでいたトンボを見て、写真を撮りました。

親鸞は常に結論から先に述べているp.93

 青木さんの教行信証読解は本書での重要部分だと思います。いらないという人もいたそうですが。

〈死〉は医者が見つめ、〈死体〉は葬儀屋が見つめ、〈死者〉は愛する人が見つめ、僧侶は〈死も死体も死者も〉なるべく見ないようにしてお布施を数えている。p.135

 必要悪としての僧侶。落語の噺に出てきます。あの可愛げももうないか。本書の映画化「おくりびと」では、僧侶は揶揄の対象どころか登場すらしなかったのが衝撃でした。あの映画は私にとってはそこが一番のメッセージでした。

要するに菩薩に近い人が側にいれば1番良いのである。/仏は前に進みすぎている。/末期患者には、説法も言葉もいらない。きれいな青空のような瞳をした、透き通った風のような人が、側にいるだけでいい。p.137

 仏より菩薩。菩薩のキャラとしての存在意義を教えていただきました。

悟りという事は如何なる場合にでも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きていることだった。正岡子規『病牀六尺』p.159

 この部分も報恩講でお伝えしました。

最高齢と思えるおばあさんが最前列で時々涙を拭いては合掌し、なんまんだぶつ、と口ずさんでいた。帰り際そのおばあさんに近づいて「話、難しかったかな」と声をかけた。すると隣の夫人が、この人耳聞こえんがと言って笑った。私はその時1時間半も、死がどうの生がどうのと理屈っぽく話していた自分が恥ずかしい気がした。そして、500年もの歳月で育まれた真宗の風土をそのおばあさんに見る思いがした。p.175

 このあたりの青木氏のバランス感覚がすごい。

僧職者達と話す機会も増えたが、話しているうちにがっかりさせられることの方が多かった。真面目に努力をされている方々も多く見られるのだが、突っ込んで話していくと教条的な観念論になってしまうのだ。そこには生死の現場から遊離した、観念だけの宗教学を教わった僧侶たちが、現場の対応に戸惑っているうちに、やがて葬式と法事に埋没されてゆく姿があった。p.192

 遠巻きで偉そうにしてる私みたいなのが急にそういう場で僧侶代表みたいな顔して反論したりしそうです。言葉も経験も徳もないから観念的になるんでしょうね。

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