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サブカル大蔵経358有馬尚経『屯田兵とは何か』(幻冬舎)

北海道の開拓者〈屯田兵〉。教科書にも掲載。歴史のない北海道の最初の1ページ。みたいに思っていました。アイヌのこと抜け落ちたまま。

私はその屯田兵が入植した旭川市永山というところに住んでいます。永山が開拓された後旭川の街ができた流れなので、結果、近郊含めて一番歴史のある街になり、預かっているお寺も説教所兼屯田兵の菩提寺として成立したとのこと。檀家さんにも屯田兵の末裔がいます。

でも、何も屯田兵のことは知らない。本書は一般向けの類書がない中貴重な一冊。

屯田兵は屯田憲兵であるので、若干ながらも憲兵的治安維持活動を行っている。p.36

 え、憲兵だったんだ…。

実際のところは困窮武士に官給を与えて反乱予防・北方ロシアからの警備・北海道という原野の開拓がメインだった。p.126

 屯田兵の実情…。

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明治24年、東永山200戸、西永山200戸平民。明治8〜23士族。札幌、江別、室蘭、根室、厚岸。p.46

 特徴として、札幌や沿岸部より新しく、内陸部の平民入植としては道内でも最初。東と西で分けてたのか…。

明治25年、下東旭川200、上東旭川200.明治26年、東当麻200、西当麻200。p.48

 永山の翌年、東旭川、翌々年、当麻。この三箇所が上川屯田か。

明治37年屯田兵制度廃止。この時代になると幕末維新期の困窮士族などの開拓移民ではなく、家族出資や大会社、大資本家、本願寺などの自社地元名手が経営する大規模農場が道内各地に進出p.59

 本願寺も絡むのか。

屯田兵。西南戦争、日清戦争出陣p.122

 日清戦争にも出ていたのか…

永山兵村は明治22年、/第一陣は6月17日前後に、第二陣は7月1日前後に永山へ入った。永山兵村は九県から召募した入植者400戸で構成されていたが、その中でも徳島県出身が113戸も占めていた。/米作については熱心であり、また経済活動も活発で永山兵村番外地には商家が多く立ち並び、旭川に第7師団が移転して軍都となる前は競馬も行われるなど上川地区の商業中心地でもあった。/日露戦争で召集を受けて298名が出生して33名が戦死した。p.186

 昔から、山形と徳島出身の人が多いと聞いてました。商いの街でもあった永山。造酒屋も今でも男山がありますが、昔はもっと多かったとのこと。ちなみに古老は今でも〈番外地〉という言葉を使います。

東旭川兵村、明治26年の段階で、小麦が役12万石、粟にいたっては28万石の収穫をあげている。p.192

 小麦と粟が多く収穫されていたとは。

当麻兵村。ハツカ、インゲン、トウキビ、い草生産。明治31年には災害が多く。p.193

 当麻の農作物におけるバラエティなアイデアはこの頃からだったんですね。

秩父別。雨竜原野に蜂須賀農場。上川離宮構想の流れの中で、華族経営の大農場を作る計画がすすめられ、華族の移住を奨励していた。p.196

 蜂須賀と秩父別。知りませんでした。

戦時中、陸軍省や大政翼賛会の関係者、屯田兵を満洲開拓のスローガンp.210

 ここに繋がってくる。著者曰く、屯田兵に関する書物は、この時代の戦争高揚のために屯田兵を引用したものが多いと。

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