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サブカル大蔵経991鈴木隆泰『仏典で実証する葬式仏教正当論』(興山舎)

〈葬式仏教〉について類書で焦点になっている、釈尊の「出家者は葬式に関わるな」についての、原典の語義解釈からの考察。

「葬儀(遺体供養)」と理解されてきた「シャリーラプージャー(パーリ語ではサリーラプージャー)」p.25

キーワード〈シャリーラプージャー〉の翻訳の仕方にこそ、〈葬式仏教〉の誤解や論争のもとがあるのではと。目から鱗。

ここで明らかにしなければならないのは、釈尊が本当に禁じたのは何か、ということです。p.28

推理小説、原典探偵のような展開。経典の言葉だからと、考えることをしてこなかった、流されていたことに気づかされます。

Schopenは、「シャリーラプージャ」とは厳密には、⑴の遺体の装飾と納棺のみだとする。p.151

グレゴリー・ショペン、引っ張りだこ。〈シャリーラプージャー〉を現代ならば、葬儀会社がするようなこと、昔ならば近所の人や近親者がした湯灌とか体拭きとかに捉えているのか。儀礼というよりも。

釈尊は「出家者が葬儀を執行してはならない」とは決して教誡していない、と明言しておきたいと思います。/彼らが同僚の出家者の葬儀は執行しても、在家者の葬儀にはノータッチであったこともまた事実なのです。p.30.31

出家者の葬儀の肯定と否定の間のややこしさ。現代日本のように、僧侶が一般の方の葬儀に関わることはなかった事実と理由。これも推理されていく。

インドの出家仏教者が在家仏教徒のために仏教式で通過儀礼を行ったとしたら、彼らは「仏教カースト」という凝集力のある集団と見なされることになります。p.37

葬儀という通過儀礼をすることで、カーストの中に組み込まれてしまうということ。それを拒否したサンガ。しかし、それゆえに、インドにおいて仏教は衰退していったのかもしれない。

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本書は、勇ましい〈論破〉本かと思いきや、日本仏教のための僧侶への激励本でもありました。原典から日本への架け橋。

このような近代仏教学による評価が日本の伝統仏教の根底を揺るがしかねないものであるにもかかわらず、今日に至るまで、両者の間に横たわるギャップを埋める作業や、両者の距離をきちんと測って正しく評価しようという作業が充分になされてきたとは言いがたいのではないか、と言うことです。p.17.18

私も近代仏教学の研究室でお世話になってから、伝統仏教の寺院に帰りました。どちらにも中途半端な立ち位置なのですが、それを逆手にとって何とか両方を繋ぐことはできないかなとずっと考えています。それくらい双方にはもったいない断絶と誤解があります。本物の学者、本物の伝道の存在を、それぞれが体感してほしいです。




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