見出し画像

屋根のない社会「教育」

こんばんは、所長の鬼頭です。
このまえのイベントの録画の加工が、まだあんまり進んでおりません…(ごめんなさい・・・)。

このMLA+研は、一言でいうと、「教育」・「学び」を研究したり、実践したりするひとのあつまりですが、わたしは「学校」も苦手だし、(頼まれもしないのに)人に物を「教える」のも、好きじゃないんですよね。

なんか、人に物を「教えよう」って、図々しく感じるんですよね、エラそうで・・・。
あるいは、学ぶ気がない人に、かりにそれが子どもであっても、「学ばせる」のって、教えるほうも、学ぶほうも、苦痛だろうなあ、と。

いちおう、教員免許もあり、塾講師や予備校講師もしましたが、学べば明るい未来が約束されているという「立身出世」の時代でもないし、「教える」だけのものが自分にそもそも備わっているのかも、ずっと疑問に思っています。

どうして「大学教員」にならないの?とは、たまに聞かれますが、体調をくずしているという以外の理由もあって、大学の先生ってどこか「怖いなあ」と思う自分がいるんです。
研究は好きだけど、教えるのはあんまり好きではない…、我ながらこまったことです。

社会「教育」にはいったのは、たぶん、そういう性格もあったんだろうと思います。
ただ、社会「教育」って、どこか今も、施設ありきなところがあります。
まあ、施設をなくしたらいいとは言いませんが、施設がすべてだとは思わないな、と。

ほかの人は知りませんが、私にとっての社会「教育」というのは、ソクラテスの問答であったり、細井平洲の辻説法であったりします。
別に彼らが信じていた価値観を私も、全部いいなあと思っているというのではなしに、社会「教育」って、街頭でやってもいいよな、と。

私の知る範囲でのイメージですが、大学の先生は、「市民」とのかかわりを好む人が少なくないんですよね。
ただ、どこまでも大学の先生と「市民」という関係が付きまとう気がしまして。

先に断っておきますが、専門(深く掘りさげたこと)はあった方がいいし、物事は「文人」のように、広く知っていた方がいいと思います。
ただ、そのときに「大学の先生」という看板は、無くてもいいよなあ、と。

最近、「WAVE」というSNS型の音声配信サイトに登録したんですね。
本当は放課後インソムニアのアニメを観て、「Spoon」をやろうと思ったのですが、アプリが非対応だったので、その代わりにおためしに、という感じです。
ある意味では、この空間も、「学校」にはない「街場」の面があります。
じっさい、ほんとうに色んな背景のひとがいます。
別に教育してやろうとか、そういう感じで、配信に参加しているわけではありません(そもそも、わたしが楽しくありません)。
むしろ、いろんな人を見て、その人たちがどんな配信をしているのかを見るのは、対話型鑑賞にとって、とても勉強になります。
学ばせて頂いているのは、「こちら=わたし」でしょうね。

今日、じつは配信をされたばかりの方のところにお訪ねして、ずいぶん気持ちよく長居をさせていただきました。
自分から「論文」を書いていると言うつもりはなかったのですが、配信のためにプロフィールでは若干、示唆しているので、「雑学が好きなの?」と聞かれてしまったんですね。
嘘をつくのもなあ…とその時に思いまして、「論文書いてるんですよ、大学の仕事はしてませんが・・・」って答えました。
その時に、「知ったかぶりしちゃうから、本当は馬鹿なのが分かってしまうなあ」とか、「へえ、すごーい。自分は勉強がきらいだったけれど、頭いいんですね・・・」みたいなリアクションになりました。
わたしは(だいぶ”権威”は低下しましたが)、たぶん「大学の先生」ってそういう「なんか近づかせがたい」もの、「自分が勉強してもしょうがないじゃん」ってものを、身にまとっているんだろうなあ、とどことなく思います。
でもその配信主さんはとてもいいひとで、配信者数が増えなかった原因にわたし自身がなってしまったのではないかとも思ったのですが、「漢文のどこが面白かったの?」とか、「こういう四字熟語知ってる」とか、「(そこでの私の名前)さんって、自分の哲学あるの?」とか、いろいろ話しかけてくれました。
ちなみに、そんな話ばかりではなく、甘いモノが好きだとか(配信者さんもそうだったみたいですが、話を合わせてくれたのかもしれません)、「ご飯食べた?」とか、そういう他愛無いはなしもしました。
1個だけ、「わたしの哲学」について尋ねられたさいに、わたしから話を振ったのですが、哲学って不思議だなっておもう心が大事なんですよーって言ったあとに、例えば「貨幣って紙切れなのに、なんでみんな欲しいと思うのだろう?」という話をしました。
配信者さんはそれに対して、「自分の思想が偏ってるかもしれないけれど、お金を使っちゃう人より、貯める人の方が良くないように思うんですよね?・・・」と、いろいろなはなしをしてくださいました。
わたしはそれに対して、思ったこととかを受けこたえしていくわけですが、配信者さんは、(参加者が)「私」だけだったので、恐らく自分の言葉でいろいろ考えてくださったように思うんですよね。
それに対して、例えばその考えは誰それという人が言っているとか、私はたしかに少なからず知っているわけですが、別にそんなものは、その人がもっと詳しく知りたいなあ、という思ったと言われたときに、答えればいいんじゃないかなあ、とわたしは思うのです。
例えば、配信者さんが「赤兎馬」って言葉を知ってると仰って、ああ(ゲームとか、漫画とかで知っている人も多いから)その人と話を続けるために、「三国志に出てきますね~」とか、「コナンにその人形を置く連続放火事件のはなしがありましたねー」などと答えました。
その後で、「(赤兎馬って)物語なのかなあ、歴史の出来事かなあ」と(おそらく何気なく)聞かれたので、その場で調べて「歴史にあったみたいですねー」と答えましたが、会話のなかで、その人にとって必要なら、「なるべく正確に、相手にとって分かりやすく答える」で良くないですか?

教師になると教育課程が存在しますから、そういうわけにはいきませんし、図書館をのぞいて、そういう意味において、社会教育施設というのは基本、「お節介」にできています。
相手によって(例えば、構ってほしい人)、あるいは学校で、そういう「お節介」が必要になる場面があることは否定しませんが、それも「常」にじゃなくていいですよね?

わたしは別に、「こんだけ知ってる~」と知識自慢をする気もないし、「知っててすごいねー」と言われるのも、あんまり好きではありません(だって、全知全能の神さまがいらしたら、人間はどんなに頑張っても勝てないじゃないですか・・・。そういう存在がいらっしゃるなら、私は間違いなく「馬鹿」の1人ですよ・・・)。
だからそういうとき、「別に最初から知らなくてもいいじゃん」って思ってしまうほうです(ちなみに、必要なときに、知ったらいいという意味で、絶対に分からなくてもいいという話ではありません)。

屋根のない社会「教育」と書きましたが、私が「教育しに行く」という話ではなく、学び手である私がむしろ、「教育を受けにいく」のです。
そういう「教育」論は、なぜか、あまり見かけません。
やっぱり、「教育してやろう」と息きごんでいる人が多いのでしょうか(あるいは、そもそも「教育しよう」どころか、「学ぼう」という意欲もないのかもしれませんが・・・)。
しかし、「教育」というのは、そんな「作為」をしなくても、勝手に学ばれていくものではないか、とわたしは思います。
ただし、その学び手が、きちんと学び手として相手に接するなら、相手も「感応」して、勝手に学んでいくだろう、ということです。
この事態を、内田樹は「先生はえらい」と言いましたし、吉川英治・松下幸之助などは「みんなが先生」と表現しました。
文脈は違いますが、ランシエールの言う「無知な教師」論も、この延長で捉えられる部分があるかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?