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世界は激変する

この記事は、2019年度2月の物学研究会 定例会レポートより作成しています。

デジタルが近代思想の根幹を破壊する

黒川:こんばんは。これからは、ますます未来の予測ができにくい時代になると僕は思っています。すると、計画が立てにくくなるので、優れた感性によってアドリブ的に時代を読み取る能力が求められるようになる。つまり、時代の行く末を見通せる先見性が大切で、そのためには人間とは何か、時代の空気はどんな方向に動いているか、ということを発見していくことが重要になってくると思っています。
 このことについて、僕は6月頃からずっと考えながら、さまざまなキーワードを選出し、試行錯誤を重ねて関係図にまとめました。今日は、この図をもとにしながらお話させていただきます。

 図の真ん中の段は、「デジタル」というキーワードから始まっています。これは、世の中を激変させたのはデジタルという概念だということです。デジタル技術がコンピュータを生み出し、インターネットが生まれ、ITと呼ばれるものが出てきましたが、ここで起きた最も大きな変化は「構造の崩壊」です。構造とは、明確な目的をより効率的に実現するために、組織を組んだり、装置を考えたりするという、近代思想の根幹を成していたものです。それがデジタルという発想によって壊れたということが大きなポイントになります。
 そこで今回は、情報革命がどのように世界を変えきたのか、また変えていくのかということを具体的な例を拾いながら、時代の行く末をみなさんと一緒に眺めてみようと思います。

世界を激変させた情報革命

 たとえば、ホンダはハード開発とソフト開発を一元管理したデジタルものづくりが大切だと言っています。また、各自動車メーカーは自動運転に欠かせない地図データをどう共有するかということが非常に重要ですから、そういう意味ではハードよりむしろソフトのものづくりへ移行していくとも言えます。
 パナソニックの津賀社長は、ハードウェアは基本的には変わらず、アプリケーションをダウンロードすることによって性能が刷新されると発言しています。つまり、これからの家電はコンピュータのようになっていくということです。モノの生産企業がソフトな生活の現場に立ち戻りつつあるのです。

 つい最近、世界最大の超大型機エアバスA380の生産が中止になりました。当初は、ハブ空港を大型機で結び、そこから先の目的地までは中・小型機を飛ばすという輸送システムが主流になると予測したものの、実際にはそうならず、長距離を飛べる中型機が目的地の都市までダイレクトに結ぶ運航形態が増えることになったからです。このことは、構造的な仕組みから、バラバラにネットワークを組んで自由に動き回るような時代に移行したことの現れだと思います。

 そして、まさに未来を変えつつあるのが、現行のパソコンの1億倍もの計算速度を誇る量子コンピュータの存在です。これが実用化しないと自動運転は不可能だと言われています。
 産業の変化だけでなく、GPS戦争や米中の貿易戦争などのようにグローバル化に伴う国家間闘争=エゴイズムや、SNSにより加速されたポピュリズムがヨーロッパ、アメリカ、韓国などに現れるようになるなど、政治的にも喜ばしくない状況が世界中で起きています。

人間とは何かを考え直す

 18世紀半ばから19世紀に起きた産業革命は、技術開発のスピードや人口の増加を加速度的に押し上げ、近代化へと導きました。僕は、「近代化=構造化」だと思っています。たとえば、組織の中の人間は、目的に向かう全体の活動の歯車のように、ある部分にだけ役立つ働きをします。これをプロフェッショナルだと言うと格好良く聞こえますが、優れた歯車になったにすぎません。これはAIも同じで、目的に対する最終的な結果を求めるということに関しては、人間に勝るすごい能力を持っています。ですから、AIとは違う「人間とは何なのか」ということを考えなければいけなくなるということです。

人口爆発が引き起こす移民・難民問題

 世界の人口統計を見ると、IT元年と言われる1980年の時点では45億人だったのが、2000年には60億を超え、2020年には78億人になると予測されています。では、その先はどうなるのか。国連の人口の予測では、そのまま増加するという予測と、しばらくしてから減少するという予測、もっと早い時期に激減するという予測の三つの予測があります。このことは、いかに未来が読めない時代なのかを象徴しています。

 また、難民や移民問題もデジタル技術の発展が関係しています。グローバルな時代、経済的に恵まれない国の人々は、よりチャンスの多い国に流れて行きます。かつては南米からの労働力を利用して成長してきたアメリカも、今では南米からの移民の流入によって社会が壊滅的な打撃を受ける恐れがある。それで、トランプ大統領は国境に壁をつくろうとしているわけですが、おそらく壁くらいでは阻止できないでしょう。さらに、ヨーロッパは人口爆発の時代に突入したアフリカからの難民流入の問題を抱えていますから、大きな移民問題の時代が来るでしょう。日本はそうした問題がないので、チャンスはまだまだあります。 

対立的競争の時代

 これからは、今までのように仲のいい国、悪い国、戦争をする国、と明確に分かれる時代は終わり、左手で喧嘩をしながら右手で握手をするような。時代になると思います。つまり、常に対立関係にありながら、それを乗り越えて仲良くする「対立的共存の時代」です。

電脳空間と脳内空間

 これまで、空間といえば、現実空間(リアルスペース)でした。ところが、デジタルの概念が登場したことにより、新たに電脳空間(サイバースペース)という目に見えない空間が登場します。サイバースペースが発達することによって、ITの世界以外にも、ゲノム解析、宇宙開発、生命論、バイオテクノロジー、幹細胞や免疫学など、さまざまな分野の学問が飛躍的に発達しました。
 さらに今後は「脳内空間(インナースペース)」というものを大事にしないといけないと思っています。何人もの脳科学者の方も言っているように、世の中の出来事はすべて脳内で起こっているのです。つまり、モノや空間は絶対的な存在ではなく、僕がそれを「意識」することで初めて「空間」「物」になるということです。僕は、現実空間にいるよりも長いのではないかと思うほど、脳内空間で生活しています。大量に本を読むわけでもなく、手に入れたわずかな情報を、自分の中で整理したり加工したりしながら第三の意味を発見したりすることに、ものすごく長い時間を使っています。
 これからは、こうした三つの空間が意識され始めているということを、きちんと理解しておく必要があります。たとえば、バーチャルリアリティは、電脳空間と脳内空間とが衝突した瞬間に生まれてくるものではないかと思っています。

「群(むれ)=ネットワーク」の時代

 こうした電脳空間で起きている特徴的な状態のことを、僕は「群(むれ)」と呼んでいます。「群」とは、グループではなく「ネットワーク」のことです。これまでのように、効率よく目的を達成するためつくられた組織は、幹から大枝、小枝へと分かれ、そして末端にたくさんの葉が生えるという「ツリー型の構造」で、そこで起きる変化は、一部の葉が落ちるような局部的なものでした。ところが、デジタルによってこの構造がバラバラになり、世界中の人々が自由につながり、その関係性を広げていく「群=ネットワーク」は、全体がうごめくような変化が常に起きています。
 別の角度から考えると、ネットワーク型の社会は、ツリー型の時代のように枝から葉に送られる栄養(給料)の保証はありませんから、自由であることの代わりに苦痛や不安が訪れるようになります。つまり、社会がツリー型の構造からネットワーク型に変化したとき、人々は不安の時代に遭遇すると理解してもいいかもしれません。

ネットワーク=ボーダレス

 「群=ネットワーク」は、人間関係、職能、地位や立場、性別、職場からの解放されたボーダレスな社会です。つまり、境界が曖昧になるので、これまでのように企業がモノを製造して販売して利益を上げるという構造は消え、職業そのものも変わってしまうのです。トーマス・フリードマンは、こうしたネットワーク型の社会を「フラット化」と呼び、そこに「ファスト(速さ)」と「スマート(知能)」が加わる新たな時代を迎えたと言っています。
 そんな時代の組織は、これまでのように固定的なピラミッド型の構造は消え、バラバラになるでしょう。そして、先日の物学研究会で訪れた「チームラボ」が目指すような「ボーダレス&インタラクティブ」な組織になるのではないかと思います。つまり、単にフラットな状態ではなく、川の水面が常にうごめいているような「無限で多次元的複合型ヒエラルキー構造」になるということです。

ネットワーク=サーチング

 もう一つ、「群=ネットワーク」に関連したキーワードで注目しておきたいのは、「サーチング(検索)」です。これまでは、バラバラになった人やモノは「整理整頓」することが必要でした。ところが、ネットワークの時代は「サーチング」するだけで整理する必要がなくなったのです。物流の世界では、検索できるように記号化して放置しておくだけで、後はロボットに命令すれば必要なものを持ち出して来てくれます。
 人間も同じで、たとえば僕は建築家で、しかも住宅の設計のプロ、そして男でしかも高齢です、というような分類をしなくても、ダイレクトに僕を発見することができる。これがサーチングの世界です。

人間を脅かす「自発的AI」

 AIは人間にとってプラスか脅威かという議論があります。その前にまず、人間がどのように物事を判断し、結論を出すかということを考えてみましょう。たとえば、僕たちが未来を予測するには、情報をマトリックス化して、直感力を使いながら演繹的に仮説を立てます。それを帰納的に検証して問題点を洗い出し、もう一度、演繹的に仮説を立て直してから再び検証する。これを繰り返すことで新たな発見を導き出します。
 僕は、このように自発的(ボランタリー)に動くことができるAIを「ボランタリーAI」という言い方をしてはどうかと思っています。現在のところAIは、限られた目的に対する結果や効率の高さを求めるのに有効でした。それがもし、人間による仮説ではなくAI自身が仮説を立てて、検証や再考をし、目的を達成できるようになると人間にとって危機的状況が訪れることになるでしょう。

 そこで疑問に思うのは、はたして人生には明確な目的があるだろうかということです。僕が何のために仕事をするのかというと、お金儲けが目的でもなければ、壮大なる社会をつくることが目的でもない。ただ、ドキドキして感動しながら、たまらないなという気持ちでモノをつくる。その「プロセス」にこそ喜びを感じています。つまり、考えれば考えるほど目的がないことに気づくのです。ですから、もしもAIが目的なしにドキドキ生きることを喜ぶようになったならば人間に置き換わってしまうでしょう。でも決してそうはならないのではないかと思っています。

 つまり、結果を求めない「プロセスの価値」を知っているのが人間です。それは「二律背反」の価値の間で生きているからこそ感じられるのだと思います。たとえば、空腹でなければ食べもののおいしさに感動することはありませんし、不安だからこそ安心の価値があるのです。1週間を2万円で過ごす人と10億円使う人では、5万円を手に入れたときの感じ方が違います。つまり、絶対的な価値というものはありません。人間は、目的をもってそれを実現する、という近代思想に基づいた価値とはおよそ離れたところに本当の人間は存在していると言ったほうがいいのだろうと思うのです。

エントロピーの増大への反抗

 分子生物学者の福岡伸一さんは、人間の生命というのは「流れの淀み」だと言っています。人間の体は、常に新しい細胞をつくって古い細胞を廃棄物として外に流し、エントロピー(系の乱雑さを表す状態量)が増大しないように反抗している。つまり、死んだ細胞は常に新しい細胞に入れ替わってエントロピーの増大に反抗している。1年もすれば体内の細胞はまったく違うものになり、いわば別人になっているほどで、細胞のレベルで生死が繰り返されることで人間の死への歩みに反抗しているというのです。
 たとえば、水の中にミルクを一滴落とすと、次第に馴染んで一つの色になり、やがて安定した状態になります。この「安定」とは、エントロピーが増大した状態であり、それを「熱的死」というのです。ですから、安定とは死を意味しているのです。

スティーブ・ジョブズが「Stay Hungry, Stay Foolish」と言ったように、ハングリーになって何かを求めて食べる、あるいは知識が十分でないことに気づいてもっと勉強する、といったネガティブなものとポジティブなことが交代するとき、初めて命というものを実感できるということになります。僕はこれが、未来の考え方だと位置づけていいのではないかと思うのです。そして、近代以降のわれわれの夢だった安全安心の時代とは、すっかり変わってしまったと考えることが必要ではないでしょうか。

エコロジーという二律背反

 デザイナーにとって大きなテーマになる「エコロジー」とは、そもそもどういうことなのでしょうか。大自然という多様性のなかで、それぞれの生命体を大事にしてバランスをとりながら生きるのがエコロジーだとするならば、人間もいつか滅びるということがエコロジー的に正しいことになりますが、誰もそうは思っていません。実際は、人間のエゴイズムに基づいた生物全体の調和体系を実現しようとしているに過ぎないのです。
 そこには「人間が自然を支配する」ことと、「自然の摂理に従う」という二律背反が潜んでいて、この二つを同時に成立させようとするのがエコロジーだと言ってもいいのではないでしょうか。

これから起きる四つのこと

1)境界が消え領域が曖昧で連続的になる

 フィンテックにより大金の送金ができるようになった今、銀行業は融解しつつありますし、ソニーも単なる家電・音響器具メーカーではなくなりました。Takramの田川欣哉さんは「技術者がデザインするから面白い発想が生まれる」と言っています。今後も、あらゆる境界がますます曖昧になっていくのは間違いありません。ですから、一つのことに対する専門性よりもオールラウンダーになる必要があります。
 そして、バラバラになって境界がなくなると、領域と領域との間の刺激が価値をもつようになります。ですから、今後は刺激を与える力が求められるようになるでしょう。

 また組織も、従来のようなスタティックなものではなく、非連続なものの連続体に変わるはずです。そこでは、命令されて動く歯車ではなく、自らやりたいことをする「自立性」が重要で、全体の中にありながらも、一人で生き延びていけるスーパーマンにならざるを得ない状況が訪れるでしょう。つまり、組織というものがなくなるのではなく、チームラボが教えてくれた、流動的で多次元的な組織が実現されていくに違いないと思います。

 また、先ほどお話したように、構造が崩壊すると自由を得るのと引き換えに保証という安定を失い、不安な時代が訪れます。そして、結果ではなくプロセスが価値を持つようになるのです。たとえば自動車は所有するのではなく、必要なときに乗れればいいというふうに価値が変わっていきます。この構造崩壊を、僕はアンチマシーン(反機械)と名付けています。


2)貨幣も物も情報化し流動化する

 あらゆるものが情報化していくなかで、モノはどういう存在に変わっていくのか。お金は貯蓄をしても価値はなく、投資をしないと社会が活性化しませんし、たくさんの料理を食べて脂をストックするよりも、少量ずつ食べて食べた分の栄養をどんどん使うほうが健康的です。つまり、ストックは最低限でいいので、それよりも常に使われていることが大事だということです。つまり、ストックではなくフロー(流れ)の価値を再認識する時代だと考えることが重要になります。


3)すべては全体がなく未完のままのプロセスになる

 今、政府は「働き方改革」を推進していますが、僕はそれよりも「働く意味改革」のほうが大事だと思っています。「働く」という文字が「人が動く」と書くように、昔は体を動かして食料を採取することが労働でした。それが時代とともに変化し、座ったままコンピュータを使うような仕事が増えていきました。このように「労働=動く」という本質的な意味から離れるに従って、だんだん「お金を得るため」という目的性ばかりを重視するようになっていったのだと思うのです。

 そもそも人間の体は、本質的に動き回るようにできています。むしろ、じっと立っていることのほうが大変で、筋肉を使って常に調整しなければ倒れてしまうのです。そう考えると、人間にとって「目的」がなくとも「動いている」ということ自体に、大きな価値がある。つまり、「結果」ではなく「プロセス」に価値があると言うことができるのです。

 先ほどの二律背反の話も、二つの価値の間でせめぎ合うという「プロセス」です。僕は、このようなプロセスのことを「生命のエンジン」と言っています。たとえば、お腹が空き、食べ物を欲して食べ、満腹になり、また空腹になる。あるいは、不安になって落ち込み、そこからまた這い上がる、というように人間が生きるために永久に繰り返す動きのことです。
 ここで重要なのは、「満腹になった」「安心した」という「結果」ではなく、「空腹」「不安」という状態から、「満腹」「安心」を勝ち取るための努力(=プロセス)を重ねている部分です。この真逆の状態を行き来するピストンのような「動き」こそが、生命力そのものだと僕は考えています。そして、プロセスを経て手に入った感動こそが、人が手に入れたい喜びなのではないでしょうか。
 ですからデザインも、幸せなものや素晴らしいものという「結果」を手に入れるためのものでなく、エンジンを常に動かす喜び、その生命の有り様に目を向けるべきだと思うのです。

 もう一つ重要なのは、「空間」「時間」「人間」というような抽象的な概念ではなく、「ここ」「今」「私(自己)」というように自分が主観的に感じたもの(意識したもの)を概念として捉えることです。これは「禅」の考え方で、まず手の触れられるところ、感じられるところから思索を初め、その周りにあるもの、さらにその周りにあるもの、と広げていくことによって、遠い空の彼方にあるものにまで行き着くというものです。

 未来は、こうした東洋的な思想に近づいてくると思っています。キリスト教に影響された西洋思想の中心にあるのは「神」ですが、東洋の場合は「自然」という偉大な存在に対して畏怖の念をもっています。何かわからない、目には見えない偉大なものに対して頭が下がり、ひれ伏したくなるような思いです。

 このような、何かわからない、目に見えないものを「混沌」と言います。中国の『荘子』のなかに『渾沌(こんとん)』という話があるのですが、目も鼻も口もない「渾沌」という名の皇帝に、お世話になったお礼として、目鼻耳口それぞれの穴を七つ開けてあげたところ、渾沌は死んでしまったという内容です。ここでは、渾沌は「生命」そのもののことであり、生命に「知」を与えれば「死」になるということを言っています。
 一方、西洋では、アリストテレスが人間の本質は「知を愛する」ことにあると考えました。そして「知」を中心とした社会が築かれ、それに科学技術が結合して近代思想が生まれました。この延々とつながってきた「知」というものを、東洋の思想は100%否定していたということです。僕は、この考え方のなかに、畏怖の念というものが潜んでいると思います。

4)世界が群になり間質という負の空間が生まれる

 四つ目は、「間質」に関する話をします。体内の細胞と細胞の間には間質液というものがあって、最近になってそれが臓器と同じくらい重要な役割をしていることがわかってきました。同様に、「ツリー型の構造」から「群」というネットワーク型になった社会組織にも、「間質(MEDIA=媒介)」の役割が重要です。

 ここでいう間質とは、概念と概念の間に挟まれた部分のことで、先ほどの「混沌=畏怖の念」と近い状態を指しています。たとえば、人間のお尻と足の境界線は明確ではありません。この曖昧な部分が「間質」です。また、宇宙はビッグバンによって爆発して、さまざまな塵が集まって星が形成されています。では、星以外の宇宙空間とは何なのか。これが僕の言う「間質」です。
 石庭も同様で、岩の間を埋める砂が「混沌」即ち「間質」で、そこには畏怖の空間が潜んでいます。また、俵屋宗達の「風神雷神図」は、背景の余白が「間質」で、そこに触媒として金箔をあしらい、風神雷神を華麗に変身させる仕掛けにしています。そして、藤田嗣治が描いた裸婦像も、女性の神秘的な肌を表現するために、あらかじめキャンバス全体に塗った乳白色の下地を余白(間質)として使っています。このように、何もない余白、無の部分に「間質」という空間を介在させるのが東洋の思想なのです。

 間質は、「群」になったことで初めて見えてくるもので、「構造」の中には現れません。モノがあるのが「正の存在」であるのに対し、無の状態である間質は「負の存在」で、生命、混沌、情報の海のようなものです。つまり、コンピュータやネットワークなど最先端の技術の話が、じつは藤田嗣治とも、東洋の思想ともつながっているということになります。

 今年度の物学研究会の「世界は激変する」というテーマについて、今後の社会はどう変わるのか、変わるようにしていくべきか、という僕の考えをお話しました。僕自身も十分にわかりきっていないことですが、以上です。ありがとうございました。

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