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高野山旅行 10【九度山 真田の里】

17時半過ぎに高野山駅をでた私たちは、再び高野山ケーブルで山をくだり、極楽橋から普通電車に乗って九度山を目指しました。

九度山駅に着いたのは18時17分。
チェックイン予定の17時をすでに1時間以上過ぎていました。

小さな無人駅でした。
真田の里って感じです

私たちが泊る予定の宿は、駅から徒歩7分と書いてあった。
地図を見ながら、進むが・・・

ここでいいのよね・・・なんだか寂しい通り。
ところどころの電柱に真田十勇士のキャラクターの絵が貼ってあるくらいで、観光地という景色ではない。

もう夕方だというのに、正面から照り付ける西日がとにかく暑い。
そして、朝から歩き回った50歳過ぎのおばさんたちの疲労度はマックス!

まだか・・・まだ着かぬのか・・・
もう10分は歩いているが、相変わらず地元の人の生活空間から抜け出る気配はない。

不安になって、電話してみようと思った頃、目印になる郵便局が見つかった。
よかった、その先だよ・・・。

こうしてついた旅館

古くからある旅館のようだ。
もしかして九度山唯一の旅館かもしれない。
(私がネットで検索しても、ここしか出てこなかった)

この旅館、高野山町石道の登山口まで1.3kmにある。昔の料亭を宿泊用に転用した施設で1925年の建築だそうです。
昔は真田屋敷に隣接していたとか。

高野山を徒歩で登るひとが、よく利用する旅館とのことでした。
また、平山郁夫さんがよく宿泊されていたそうで、平山郁夫さんファンの友人は、この部屋にいつも泊まられてました、と聞いて大興奮していました。

部屋にあった、平山郁夫さんの書

夕食はついていないのたが、近くに飲食できるようなところはなさそうだ。
内湯もあることはあるらしいのですが、旅館の人の勧めで、近くの食事もできる温泉に送迎していただきました。

そこで、温泉に入って疲れをとり、もうラストオーダーの時間にレストランに入り、ちょっと嫌な顔されながら、かんぱーい!

お料理も、おいしかったです。

さて、この旅館、前の晩に柿の葉寿司をいただき、それが翌朝ごはんになります。支払いも、夜のうちに済ませます。
なぜなら、高野山に登る方が多く、まだ明け方旅館を出ていくからだそうです。
なるほど、そういうことだったのね。

私たちは、翌朝、その柿の葉寿司と、高野山で買ってきた生麩饅頭を食べることにしました。

実は、生麩饅頭(右)はどうしても食べたくて、高野山を出る最後に買いました。
左が柿の葉寿司、右が生麩饅頭

どちらも、楽しみにしていました。
柿の葉寿司は、この辺の名物のようです。

どちらも、本当においしかった!

さて、ここ九度山は、真田の里として知られていますが、私が2泊目に九度山を選んだのは、真田に興味があったからではありません。

私が行きたかったのは、慈尊院と丹生官省符神社です。
ということで、朝イチでそちらに行ったのですが、その記事は長くなりそうなので、その後行った真田関連の場所を先に書きます。

関ヶ原で敗れた真田昌幸、幸村親子は、高野山に蟄居を命じられ、高野山蓮華定院にいましたが、高野山は女人禁制なので、のちに妻子と住むことが許され、九度山に移り住み、大坂の陣までの14年間を過ごしました。

現在九度山には、真田父子の屋敷跡である真田庵があり、近くに真田ミュージアムがあります。

私たちは、まず真田ミュージアムに行きました。

真新しい建物です。

大河ドラマファンの私ですが、諸事情あり、真田丸は見ていませんでした。
真田幸村のことも、そこまで詳しくはなかったのですが、このミュージアムで詳しく勉強することができました。

エントランス

内部は撮影できるところとできないところがあったようですが、よくわからず、むしろ夢中で展示を見ていて、全く撮影していませんでした。

真田父子が、現実どのような生活をしていたのか?
本当に貧しかったのか?
徳川へのカモフラージュのために貧しいふりをしていたのか?
この山奥の地で、おとなしく過ごしているふりをして、兵器を集め、時期をうかがっていたのか?
色々説があるようですが、なかなか興味深いです。

さて、真田庵に行く前に、真田庵のすぐ横にある、そば処幸村庵で昼食を取りました。
旅館の人おすすめで、昼になると大混雑する人気店とのこと。

古民家を改装した風情ある建物です。

まだ11時過ぎでしたが、もうかなりの混雑。
待たなければならないかと思ったら、入口近くのテーブルが一つ空いていて、すぐに座ることができました。

待っている間に出てきた、そばのお菓子がおいしかった。

ちょっと高かったけど、せっかくなので、1900円の大助セットを注文しました。大助は、真田幸村の息子ですね。
ここ九度山で生まれ、大阪城で秀頼と最後を共にしました。
幸村御膳は、高くて手が出ませんでした。

店内には、赤備えの具足が飾られていました。

この部屋の奥の赤備え、見えますか?
これに、コーヒーと蕎麦湯がつきました。

けっこう待たされましたが、とってもおいしそう!
ここのおそばは、信州そばとのこと。真田昌幸、幸村の生まれ育った信州上田の味が、ここ九度山で食べられるんですね。

お腹もいっぱいになり、真田庵へ向かいます。

真田庵は、真田昌幸、幸村、大助が住んでいた屋敷跡に、江戸時代1741年、大安上人によって創建された高野山真言宗の寺、善名称院というお寺です。
門に、真田の家紋である六文銭がありますね。

本堂は、珍しい城郭風の八棟造り・・・と、本堂の写真とってないやないかいっ!!
なんということでしょう・・・
この後ろにちょっとだけ写っています。

私たちは、上の写真の後ろ側から入ったのですが、こちら手前側の門に、真田家の六文銭紋の由来が書いてありました。

もともとは、北条家の重臣、松田尾張守の永楽通宝の紋の旗を、6本作って夜討ちをかけ、勝利をおさめたことから来ていたのですね。
真田幸村14歳にして、すごい武将だったんだなあ・・・。この時から真田幸村は六文銭の紋を使うようになったとのことです。

この場所の左側に、真田昌幸の墓地と、ちいさな祠があります。

真田昌幸は、慶長16年(1611年)再起を願いながら、この地で65歳の生涯を終えました。
幸村、大助は、その3年後、この地を出て大阪城に入ったのでした。

真田昌幸 墓地

墓地の横の祠は、真田地主大権現です。
真田家重大の宝物である毘沙門天と、真田家三代の御霊を合祀したものとのことで、幸運の神、地主権現として信仰されているそうです。

この真田地主大権現の後ろ側に、小さな資料館があって、幸村が使用していた槍先や鎧、書状などを見ることができます。

本堂の延命子安地蔵菩薩を参拝し、大安上人の廟所霊屋をみて、御朱印をいただこうと思ったら、無人で紙が置いてあって、料金は賽銭箱へ、ということでした。
ちょっと残念な感じでしたが、いただいてきました。

お庭には、桔梗がたくさん咲いていました。

ちなみに、九度山では、毎年5月に、真田幸村親子を偲んで、真田祭りが行われるそうです。
総勢500人の赤備えの武者行列が町内を歩く盛大なお祭りとのこと。
真田を支えた、伝説の真田十勇士などもいるそうです。
この時の九度山は、きっとすごい盛り上がりなんだろうなあ・・・

もう終わりに近い感じでしたが、綺麗でした。
高野山の旅行はここで最後でしたが、その前に行った慈尊院、丹生官省符神社の記事がまだですので、あと一回(で終わる予定・いや、あと2回???)おつきあいくださいませ。

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