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30歳を迎えた節目に、「死ぬときに、どんな人だったと言われたいか」を考えてみた。

バッタバタと過ごしていて半分忘れていたけれど、先月30歳になりました。三十路ってやつです。

一応お祝いとして美味しいお肉を食べにいったり、珍しくコスメを買ったりしたものの、誕生日当日も普通に仕事はしていたし、特に変わり映えのない日常で。

毎年誕生日はひとつの節目として、Facebookとかnoteとかで今後の目標とか語っていたのですが、今年はそれすらやっていません。

子どもの頃はウキウキだった誕生日も、大人になるにつれて特別感が薄れていって、自分が生まれた尊い記念日さえただの「日常」になっていく。

もう誕生日が終わってだいぶ経ってしまったのですが「こんなふうに何かを大切にする心を失いながら大人になるのはさみしいな」と急に感じはじめ、盛大に遅延しつつも「なにか残そう!」とnoteを開いた次第です。


ー30歳。

まだまだ「いや、若いよ!」といわれる年齢ではあるけれど、若さのパワーで押し切って許される時期はとうに過ぎていて、しっかりと芯のある人に、深みのある人間になっていかねばならぬ分岐点だと感じています。

いつもなら「30代の目標は〜〜〜」と語りはじめるところですが、今年はちょっと違った視点から自分を見つめてみようと思います。


ー 死ぬときに、どんな人だったと言われたい?

平均寿命まで生きると仮定しても、まだ50年以上は続く私の人生。

とはいえ、あまり長生きしたい願望もないので少し気が早いですが、もしも急に明日死んだとして、そのときまわりの人になんて言ってもらいたいかを想像してみました。


日々パラレルワーカーとして生きる私には色んな顔があって、色んな人と関わり・繋がりを持っています。

それらを全部ひっくるめたうえで、最後に「みきてぃって〇〇だったよね」と話題にしてもらうときに、なんて言ってもらいたいか。


私はただ、「みきてぃって、なんだかんだ、いいヤツだったよね」って言ってもらいたい。


「いいヤツ」の定義って人それぞれだし、「じゃあそれってどんなヤツだよ」といわれると即答はできないのだけれど。

私は口は悪いし、性格もちょっと面倒くさいし(ちょっとじゃないかも)、そう考えると全然「いいヤツ」ではないのかもしれません。

でも、自分の言動に対する責任感だったりとか、筋を通すことの大切さは、昔から人一倍気をつけているつもり。


20代までは「正しいことを突き通す」「白黒ハッキリさせる」が自分のテーマのように感じていたけれど、歳を重ねるごとに関わる人も増え「正論を振りかざすのが正解ではない」とようやく気がつきはじめました。

私ももういい大人だから、人の気持ちに寄り添うこと、私の思う「正しさ」から外れていることも受け止めて、一緒に考える懐の広さ・深さを持つことを、少しずつ身につけていきたい。

それが達成できたときに「みきてぃって、なんだかんだいいヤツだったよね」って、言ってもらえるんじゃないかと思うんです。

踏み出したばかりの、30代の道。

ただ歳を重ねるのではなく、しっかりと深い色合いを作っていきたいな。

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