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「花粉症」のプラクティス #2 - #9

2

 2000年以降、前年の100倍超ペースで上昇を続けた花粉量は、2020年の春に至り、人類に変革をもたらした。花粉症の反転。飛散する花粉にアレルギー反応を起こしていた患者たちは、空気中の花粉を操作する超能力”ブレス”を授かった。

 花粉症であろうとなかろうと、過剰量の花粉に心肺を冒されれば人は死ぬ。日々上昇する花粉濃度と花粉症患者・非発症者の分断により世界は混乱し、やがて放たれた一発の銃弾が均衡を崩した。人類は20年の間に十分の一までその数を減らし、そして支配権を握った非発症者が社会に二つのルールを加えた。

 一つ、花粉症患者は超能力を抑制する薬を欠かさず摂取しなければならない。

 二つ、人類は地球各地を浮遊周回する球形ドーム都市で生活する。その高度3000mは、花粉が堆積する限界高度にほぼ等しい。下回れば花粉を除去しきれないが、高すぎれば動力に使う花粉を確保できなくなる。

3

「おやおや、ヨコハマ・ミリタリー・ポリス様のお出ましだぜ」
「症無しめ。帰って空気清浄機関のナニでもしゃぶってろ」

 焦点の合わない飲んだくれどもは大声で笑い、私を無視してまた騒ぎ始めた。私はコートの下から細い警棒を抜き、丸机の一角を軽く叩いた。轟音とともに机は砕け散り、クズどもは再び、今度は冷めた視線を私に向けた。

「やめな」

 そのしわがれた声は店の奥から聞こえた。一人の老婆がカウンター席にもたれかかっていた。

「やれやれ、樫の机が台無しだ。訳も言わずにとにかく出て行けたあ、ちょいと横暴じゃないかね、YMP」

 その老婆は他の酔っぱらいとは違って見えた。手に持ったグラスと赤い目元からしてやはり飲酒しているようではあったが、その口ぶりと振る舞いは確かだった。正気は疑わしかったが、私は警棒を下ろした。

「店主か」
「看板も見えないのかいボンクラ。おれは主治医のアンバだ」

4

「ここが酒場風の病院だろうと、病院を装った酒場だろうと、合法だろうと違法だろうと、どうだっていい。一時間前からドーム全域に避難指示が出ている。公共放送で……」

 私は店内を見回し、初めて愕然とした。

「……ラジオはどこだ? 設置は全市民の義務だぞ」
「歴史修正主義者の監視装置かい? あんたらの飼い主、空気清浄機関とは古い付き合いでね。うちは特例を認められてる」

 明らかに私は怒るべきだった。しかしあまりにもあまりなアンバ老の言い分に思わず笑ってしまい、慌てて咳払いをする羽目になった。

「議論をするつもりはない。特例というならば、非常時におけるYMPの市民指揮権に例外はない。フラワーマンが接近している。地下層に避難しろ」

 私は一語一句に重みを込めて言った。

「なにがフラワーマンだ。薬を抜けば俺だって花粉症だぜ」
「お前のブレスはコインを浮かす手品だろ」

 酔っ払いどもが笑った。殴り掛からなかった私の理性は賞賛に値する。

5

「貴様らが今朝、抑制剤を摂取していたとして、効果が完全に切れるまであと70時間。ようやくコインが浮いたころには、ドームは地下層ごと全滅、花粉の海に墜落している。侵入したのはラフレシア級のフラワーマンだ」

 その言葉には警棒以上の効果があった。酔客の沈黙を、私は優越感とともに数秒噛み締めた。

「では避難を――」

 私が気分よく号令しかけた瞬間。巨大な建物に大質量が衝突し、崩れ落ちたような轟音が外で起こった。その場の全員が窓と扉の外を見、その形容が正しいことを確認した。標準時刻の青空が投影されていた天井の一か所に巨大な穴が開き、朝焼けとも夕焼けとも知れない茜空が覗いていた。

「今日は店じまいだ。とっとと行きな、酔っ払いども」

 肝が太いのかボケているのか、アンバ老は普段通り店を閉めるかのような口調で言った。流石に酔いも醒めたらしく、客たちは大人しく出て行った。陽気な音楽が響く店には私とアンバ老だけが残された。

6

「手間を掛けさせたね。けど机は弁償してもらうよ」
「申請しておく。ドクター、あなたも避難を」

 アンバ老は小さなグラスを呷った。外では再び、さっきより近くで轟音が起こったが、アンバ老は身動ぎもしなかった。

「……たかが飲み屋に対花粉装備とは大げさだね、YMP」

 私は警棒を出したままであることに気付き、コートの下に戻した。

「このあたりはフラワーマン……抑制者が多い。それに、画一戦争で暴れまわった抑制者が住んでいるという噂も聞く。子どもの身で、いくつもの地表都市を滅ぼしたとか」
「噂ねえ。お得意のデータベースで調べれば済む話じゃないか」
「YMPの役割は治安維持の実働部隊だ。市民を捜査する権限はない」
「嫌われ者だね。同情してやってもいいが、十年前で子どもとなるとまだ若造だろう。こんな店には来ないさ」
「若いとは言い切れない。その子どもは外見を変化させる能力を持っていたらしい」
「なら、さぞいい女だろうね」

7

 アンバ老はグラスを回し店内を見回すばかりで立ち上がろうとしない。私もまた何も言わないでいると、さらに近くで何かが爆発し、その風が店の窓を揺らした。

「私を信用しないのは勝手だが、敵は確かに侵入している」
「乱暴な奴らしいね。ラフレシア級フラワーマンなんて呼び名、おれらの頃はなかったが」
「史書では違う。フラワーマン、花狂い……花粉症の研究と分類は開戦前には完成していた。だから我々が勝利した」
「ふん。その暴れまわった奴と、いま来てる奴、どっちが格上なんだい?」

 私は老婆から目を切り、扉へと振り向いた。店に入る前からイヤコムに聞こえていたYMPの通信は、数秒前に途絶えていた。

「……逃げるにはもう遅い。店を出るな」
「待ちな」

 その声とともに老婆は私に歩み寄り、琥珀色の液体が揺れる小さなグラスを近場の無事な机に置いた。

「<幸運>。うちで一番の薬だ。必要だろ?」

 私はグラスを手に取り、一口に呷った。

8

 アンバ耳鼻科を出て数歩、私は口中の液体を吐き出した。グラスの中身が唇に触れた瞬間、機械化した心肺機能への攻撃を狙う花粉をナノマシンが検出していた。

「……クソアマが」

 私は店を睨んで唾を吐き捨て、正面に向き直り、そして待った。坂の頂上からは、近づいてくる黄色い靄とその中心の人影が見えた。

 それは宙を舞う花粉の集まりと真っ黒いローブで頭からつま先までを覆っていた。異常にもその顔は完全に影の中に埋もれ、その足は地面から浮遊していた。すぐに声の届く距離まで接近したその女の肉体は、真っ黒く塗った聖母像のように豊満だった。

「見つけたぞ、フラワーマン……クスキ。まずは私が相手だ」

 クスキは前進を止めたが、答えることはなかった。私の視界は炎に覆われた。私は私の体があった空間の爆発を横っ飛びに躱し、ナイフを投げつけた。

9

 真っ直ぐ彼女の顔面に向かったナイフは、しかしその肌まで1メートルの位置で花粉に包まれ空中に静止した。

 驚きはしない。花粉の密集も爆発もクスキのブレスによるものだ。化合――花粉そのものを急激に酸化、燃焼、爆発させる力。YMPを殺し、ドームの空を穿った凶暴な力。問題は標的を目視しなければならない点だ。何しろ相手は姿を自由に変えるのだから。

「どんな間抜けだYMPは! こんなショボい花火にやられるとは!」

 私は朗々と嘯いた。その瞬間、空中のナイフに内蔵された閃光弾が炸裂し、周囲を真っ白に染めた。

 顔を逸らす彼女をゴーグルの下で捉え飛び掛かる。必中距離でその鎖骨を警棒で打ち砕こうと振りかぶり、そしてその体勢で私は静止させられた。体中に黄色い花粉が纏わりついていた。

「……花粉をセンサーにしたのか。ニューロンの負荷は大きそうだが……悪くない。これであの女を殺せる」

 私が語り掛けると、クスキはゆっくりと振り返った。 【続く】

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