「モテ」という言葉に思うエトセトラ

29歳になろうとしている。

アラサーという歳になることなど、まったく想像もしていなかった。それにしても20代後半ともなれば、もっと人生を力強い歩みで進んでいけるものだと妄想していたが、いつまで経ってもこの世の中で生きるのは心細いままでいる。

仕事はポンコツなりにも歩き方のようなものが見えはじめた。日々自分のできなさ加減に泣きながらではあるが。

最もどうしたらいいのか分からないのが恋愛だ。22歳以降、恋愛は音沙汰無しというわけではないものの、付き合っては「やっぱり付き合えないです」と2日後に言われたり、マッチングアプリで知り合った人と仲良くなったと思えば最後の最後で違う人を選ばれたり。なんか惜しいここ数年を過ごしてきた。

こんなにも紆余曲折する人生なんて想像していなかった……!迷路に迷い込んだようだ。

そしてついには、仲のいい友人たちが軒並み結婚していく。先日、恋愛うまくいかないなあと言い合っていた友人でさえ付き合う人ができたとLINEがきた。どうなってんだよ!

憤慨しつつも、そんな数年を過ごしているともはやそんな典型的なルサンチマンを腑に抱えることさえ、どうでもよくなってくる。この感情自体がテンプレ的とでもいうのか、世間が恋愛できている方がいいよね感を出しているからそれに乗れていない自分はダメだよねと思わされている感。「非モテ=悪」的な。よく考えると、人をモテ/非モテで捉えていないし、付き合っている人がいるからといってモテに絡め取られるのもよく分からない。

誰かいてほしいとは思うけれど、誰とも付き合えていない現状がひどく惨めかといえばそんなことはない。今は今で楽しいのだ。

しかし、そういったらそういったで「本当はモテたいのに素直じゃない」言われたり、お洒落するだけで「モテたいんでしょ」と言われる。

それが飲み会の場であれば「いや、別にモテたいわけじゃなくて……」と弁明するのも面倒臭いというか、その場の空気を変にさせるので、ノリで「モテたいです!」と言う。しかし、それとて「モテたいです!」のあとには括弧付きで(というのはこの場のノリであって、別にモテたいとは思っていないわけで。不特定多数から好きになられたいとか、異性を落としたいとかそういうんじゃなくて、話の合う人が一人いたら十分なんです。それにお洒落しているのもモテじゃなくて自分の気持ちをよくしたいだけなんです)みたいな長文が宙に浮いている。

同世代と話すときはあまり言われないが、30代より上の世代と話しているとこの手の話題は多い。

その点モヤモヤするのは、恋愛における男女間の振る舞いとして男性は強くあるほうがかっこいいみたいな言説だ。

THE恋愛的なトキメキを求めるならそうなのかもしれないけれど、自分はそうした強さとかかっこよさを手にいれることに全く興味がないままに大人になった。

それゆえ、大人になってからこんなにも〈恋愛〉において指南される「こうあるべき像」は、強くてかっこよくて、なんなら少々強引でなければいけないのか?と疑問に思うところが多々ある。

上の世代から、男性なんだから強引に行きなよとか女性は押しに弱いんだから強く行きなよなどと言われるたびにモヤモヤする。

「モテたいんでしょ」に付随する、こうしたさまざまな言葉を投げられるたびに自分の要素としてそうしたことは持ち合わせていないことと、自分の求める恋愛はちょっと違うことを気付かされる。

そんなことより、些細なことでも語り合えることや考えを違いに話し合えることの方がよほど重要なはず。また、ジェンダー的な自分の信条とも相容れず、ときどき言われるそれらの言葉にモヤモヤが止まらない。

お洒落をすることだって、異性の目線もあるにはあるけれど、それ以上に自分が気持ちよく暮らすためにそうしていることの方が大きい。女性の友人と話すとセルフケアとかチアアップ的な要素は理解してもらえることが多いけれど、男性と話すとあらゆることがモテに絡め取られる。

別の側面から見れば、あらゆるモチベーションが本来ある言葉や感情ではなく、「モテたい」という一言だけに帰着する。なんと、言葉の貧しいこと。

書きながら気づいたけれど、言葉の貧しさにもモヤモヤしているのか。

この類の話を書くと本当に些細なことから顕在化している大きなことまで、大小さまざまなモヤモヤがあるのだ。

そんなモヤモヤもなく恋愛できたらいいのに。

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