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初代天皇の神武天皇を慕い創建された橿原神宮のあまりの美しさに驚きを隠せない


橿原神宮に行ってきました。

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橿原神宮のあまりの美しさに見とれてしまいました。他の神社と比べても美しさが際立ちます。明治23年(4月2日)に創建されたように近代に入ってから造られた神社とはいえ、美しさの秘密はそれだけではないような気もします。

そんな橿原神宮について書いてみたいと思います。

橿原詣は人生初の近鉄電車の旅

今回は電車の旅となりました。名古屋からは初めてとなる近鉄電車に乗ることができました。意外と乗らない近鉄電車です。伊勢神宮に行く時もクルマで行ってしまうので、浜松に住んでいると意外と乗る機会がなかったりします。

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特急ひのとりに乗りました。新しくできた車両のようで新車を買ったときのような匂いがします。それだけでテンション上がりますね。

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朝早かったのでまだ誰も乗っていません。

一度乗り換えがありますが、名古屋から1時間半程到着します。

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駅も神宮風の建物ですね。

地元の有志の請願により創建された橿原神宮

橿原神宮が創建されたのは明治23年4月2日です。初代天皇となった神武天皇を慕っていた地元の有志たちが神社創建の請願が起こります。それを聞いた明治天皇が大変喜ばれ、橿原神宮の創建に至りました。

神武天皇は幾多の苦難を乗り越える強運と、長寿の神様としても知られています。開運延寿の神様として橿原の人たちに敬われていたことがわかります。

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創建から130年目を迎えるにあたり改修された鳥居

昨年御鎮座130周年を迎えた橿原神宮。四つの鳥居を改修していました。

今回私が見た鳥居は、表参道から拝殿に向かいましたので一の鳥居と二の鳥居です。幅広い表参道を歩くと開放感を感じました。

一の鳥居

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二の鳥居

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どちらも真新しいヒノキです。朝日を浴びた両鳥居が金色に輝いて見えたのは決して大げさな表現ではありません。本当に明るく輝いていました。

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美しさを感じたのはこの鳥居を最初に目にしたからだと思います。もちろん美しさを感じたのは鳥居だけではありません。この先にある境内のあらゆる施設からも美しさを感じました。

これはおそらく、初代天皇が祀られている神宮であることと、日本人の心の美しさが成したことだと思います。有志の請願で建てられた橿原神宮を汚す訳にはいかないという有志の思いが今に至っているのではないかと感じさせてくれます。


手水舎(大きさに驚きました)

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先に進んでみましょう。南神門をくぐれば目の前に広がる神域が待っています。

南神門(屋根と門のバランスが美しい!まさに日本建築の美しさ)

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門をくぐると目の前にじっしりと敷き詰められた白い玉砂利と、緑色の木々と背後にそびえる畝傍山(うねびやま)が、そして青く澄み切った空。

このコントラストが橿原神宮のさらなる美しさを演出しています。

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外拝殿

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大きな屋根です。このような屋根の造りを「入母屋造り」というそうです。迫力があります。


畝傍山と外拝殿

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Youtubeで動画も公開しています。是非ご覧ください。




神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)

外拝殿に近づくとその向こうにある内拝殿が見えてきます。

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金色と言っていいでしょう。内拝殿は外からでは感じることのできない色で輝いていました。

この奥にある本殿に神武天皇が御鎮座なされています。古事記における名前は神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)です。

神武東征によりたどり着いた橿原の地に宮を作り天下を治め、初代天皇となりました。その即位日は紀元前660年2月11日。この2月11日が日本の建国記念日として制定されました。

神武東征のお話しは曽許乃御立神社の御祭神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)のお話しの中でも登場します。武甕槌命は神武東征の際の窮地を助けた神様です。

詳しくはこちらをお読みください。


皇后となった媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)は古事記によるところの比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)です。古事記では父親は大物主神(おおものぬしのかみ:三輪山に鎮まる神様:大神神社の御祭神) 日本書紀では事代主神(ことしろぬしのかみ)が父親とされています。大物主神は海の彼方から光とともに現れて、大国主命の国造りの最後の仕事として三輪山に自分を祀ればこの国はうまく治まると言い、それに従い国造りが完了したとされています。一方、事代主神は大国主命の子どもです。このあたりが神話の複雑なところなのでしょうか。いずれにしましても神の御子であることに変わりはなく、神武天皇も皇后選びの決め手だったのかもしれません。

このお二人、それは深く深く愛し合っていたそうです。(高千穂に残してきた妻と子どものことは語るまい)

ここからは神倭伊波礼毘古命がお生まれになるずっと前までさかのぼってみましょう。曾祖父や祖父の神様のエピソードを追ってみましょう。

曽祖父、邇邇芸命(ににぎのみこと)

大国主命の国譲りにより葦原中国(あいはらのなかつくに:高天原と黄泉の国の中間、つまり地上の世界、日本列島のこと)を平定した天照大御神は地上の国を統治するための司令官として孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)を任命します。天孫降臨です。

邇邇芸命は天照大御神から授かった三種の神器を携え、途中道案内として現れた国つ神の猿田毘古神(さるたひこのかみ)に導かれ、日向の高千穂の地に降り立ちました。

「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」そう言ってその地に宮殿を建て住むことになりました。

邇邇芸命はある日、美しい女神に出会います。大山津見神(おおやまつみのかみ)の子、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)です。
(浜松市の須佐之男神社で紹介した木花咲那姫命のことです。須佐之男命と一緒に祀られています。桜の花のように美しい神様、富士山の神様です)

一目惚れした木花之佐久夜毘売と一夜を共にしたいとアピールする邇邇芸命ですが(かなり積極的)、父神の大山津見神から「天孫であるあなた様には姉の石長比売(いわながひめ)も一緒に嫁がせます」と申し出ます。しかし邇邇芸命は、容姿で妹に劣る石長比売を追い返してしまいます。

これに怒った大山津見神は、「二人の娘を差し出したことには理由があり、姉の石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、妹の木花之佐久夜毘売を差し上げたのは木の花が咲くように栄えるよう誓約を立てました。しかし石長比売を追い返したことで、天つ神の御子の寿命は木の花のようにはかないことになるでしょう」と言います。これにより邇邇芸命とその後の子孫は永遠の命を失ったとされています。

邇邇芸命は木花之佐久夜毘売が身ごもった子どもを本当に自分の子どもなのかと疑ったりとかなりイメージのよろしくない神様です。その疑いを晴らすために木花之佐久夜毘売は出産の際に産屋に火を放ち、無事に出産できたらその子どもはあなたの子の証明との誓約を立て、無事に火照命(ほでりのみこと:海幸彦)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命(ほおりのみこと:山幸彦)の三人の子どもを出産します。

火遠理命、山幸彦が神武天皇の祖父にあたります。

祖父、山幸彦(火遠理命:ほおりのみこと)

山幸彦は弓矢を使って山の幸を狩り、兄の海幸彦は釣り道具で海の幸を獲る生活をしていました。ある日弟の山幸彦がお互いの道具を交換してみようと提案します。いつも山で狩りばかりの生活がつまらなくなっていたことでしょう。最初は承諾しない兄海幸彦でしたが、粘り強く何回も願い出る弟に、そこまで言うならと承諾します。大喜びで釣りを始めた山幸彦でしたが、魚に釣り針ごと持っていかれてしまいます。

大事に使えと交換を承諾した海幸彦は大激怒します。同じような針を作っても決して受け取りません。針をなくしてしまった海辺を眺めながら困り果てていた山幸彦の前に塩椎神(しおつちのかみ)が現れます。

事情を聞いた塩椎神は竹で作った小船に山幸彦を乗せ、「この船に乗って綿津見神(わたつみのかみ:海の神様)の宮殿に行きなさい。宮殿の脇に桂の木があるので、その枝に座って待っていなさい」と告げどこかに消えてしまいます。

言われたとおり船に乗り、潮の流れに任せていると立派な宮殿に着きました。言われたとおり枝に座っているとそこへ豊玉毘売(とよたまびめ)の侍女が水を汲みに現れました。(豊玉毘売は綿津見神の娘です)

山幸彦は侍女に「水をください」と声をかけ、侍女は器に水を汲み渡します。山幸彦は水を飲むわけでもなく、代わりに自分の首にかけていた玉を口に入れ、そして器の中に吐き出します。その玉を取ろうとしても取れないことにあわてた侍女は豊玉毘売の元にかけより事情を話します。

豊玉毘売は「外に誰かいるの?」と門を出ます。これが二人の運命の出会い。目を合わせただけで恋に落ちます。しかも相手は天つ神の血筋を引いた男子。綿津見神の宮殿に招かれて丁重におもてなしを受けます。

山幸彦と豊玉毘売は夫婦となり宮殿での甘い生活を送りますが、三年の月日が経った頃、山幸彦は宮殿に来た目的を思い出します。(夫婦生活の倦怠期だったともされています)本来の目的はなくしてしまった兄の釣り針を探すこと。そのことを綿津見神に打ち明けると、魚を集め針を探させます。そしてなくした針は見つかりました。

綿津見神はこう言います。「この針を返すときに後ろ向きで返しなさい。その時に、ふさぎ針、せっかち針、貧乏針、愚か針と呪いの言葉を唱えながら返しなさい。兄が高いところに田んぼを作ったらあなたは低いところに作りなさい。兄が低いところに田んぼを作ったらあなたは高いところに作りなさい。そうすれば水を支配する私が兄を貧乏にさせましょう。兄弟で争いになった時には潮の満ち引き支配するこの珠を出し、潮を満たして溺れさせ、許しを請うてきたら潮を干上がらせて許してあげなさい」

実に恐ろしいことを言うものです。三年ぶりに故郷に帰った山幸彦は綿津見神に言われたとおりにして針を返します。すると言われたとおりのことが起こり海幸彦はどん底に落ち貧乏になってしまいます。海幸彦は裕福になった山幸彦を妬み争いを起こします。山幸彦は例の潮の満ち引きを操る珠を使い兄を苦しめます。観念した兄は弟に許しを請い、「これからをあなたの配下につきあなたを守ります」と言わしめたのです。(この話は天孫族と隼人族との闘争を神話化した話しとされています)

まだまだ続きますよ。

帰ってしまった山幸彦を豊玉毘売は忘れることができません。恋い焦がれる毎日。しかも山幸彦の子どもを身ごもっています。豊玉毘売は地上に行き、山幸彦にこう言います。「あなたの子どもを身ごもっています。天つ神の御子を海の中で生むことはよろしくありません。だからここに来ました」

そうと知った山幸彦は海辺に産屋を作り出産の準備を整えます。豊玉毘売は「子を生むときは本来の姿に戻るものです。ですから決して覗かないでください」と訴えます。

本来の姿とはいったい?そう疑問に思った山幸彦でしたが、豊玉毘売がそう言うなら覗くまいと一旦は思うものの、やはり気になって仕方ありません。豊玉毘売が産気づき産屋に入るやいなや、こっそりと覗いてしまいます。(この時、急に産気づいてしまったことから産屋の屋根が葺き終わらないうちに出産となってしまいます)

そこで見たものとは?

豊玉毘売の本来の姿はヤヒロワニ(サメとされています)でした。本来の姿を見られてしまいもうここにはいられないと、豊玉毘売は生まれた子どもを残し海に帰ってしまいます。その生まれた子どもが鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、神武天皇の父親です。

父、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)

この名前を付けたのは豊玉毘売です。この字から母の思いが伝わってきます。鵜の羽を草として葺いたが、屋根がふき合わせないうちに生まれ、草につつまれすてられたことから付けた名前とされています。しかしそれだけでなく、もうわが子には決して会うことはできないという意味も不合という字に込められているのではないかとさえ思ってしまいます。

山幸彦にもわが子にも、忘れられない恋心を残したままの豊玉毘売は、鵜葺草葺不合命を育ててもらうために妹の玉依毘売(たまよりびめ)に託します。地上に遣わされた玉依毘売は無償の愛で鵜葺草葺不合命を育てます。

生みの親に会えない寂しさを育ての母に求めた鵜葺草葺不合命はいつしか玉依毘売を愛するようになります。そして叔母である玉依毘売を妻とし、四人の神様を生むことになります。

その末っ子が神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、神武天皇です。

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このことから神武天皇は天照大御神の五世孫、子孫なのです。神武天皇の父系を辿ると天照大御神になるということです。母系を辿ると海神の子孫ということになります。生命の源は海からとされています。母なる海なんて言葉もあったりします。生み(うみ)は海(うみ)にも通じます。

古事記や日本書紀は、とてつもない大きな浪漫を感じさせる話しですよね。日本人として知っておくべきだと思うのは私だけでしょうか。

神武天皇から今上天皇まで126代、途切れることなく父系で続いています。神話も含めて万世一系です。これは世界でも類がないことです。女系天皇の話が湧き上がってきた数年前に、マスコミが女系天皇に賛成かというアンケートを取ったいたようですが、そもそも男系天皇とは女系天皇とはをしっかりと説明しないでアンケートを取ること自体が馬鹿げた話しであると思っています。なぜ万世一系を維持してきたのか。皇室について男女平等で語ろうとするから話しがややこしくなる。いや、ややこしくさせようとしているマスコミの意図を感じ得ません。理屈ではなく、皇位継承はずっと天皇家で続いているということであり、天皇家でない人の継承は日本の歴史において有り得ないという考え方に私は賛成しています。

ですから御祭神の神武天皇のことについて書くことにあたり、神武東征については以前の記事を参照に留め、初代天皇の祖先はどうなっているのかを古事記や日本書紀を元に追ってみました。

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外拝殿


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一直線に伸びる回廊があると写真を撮らずにはいられません。


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橿原神社には御神木はないそうです。この巨大な松の木がどこか気になってしまいました。


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神楽殿


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深田池

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仲良しカモさん。

私の中に記憶された美しい橿原神宮

どこを見ても美しさが際立つ橿原神宮でした。初代天皇が御鎮座されるにふさわしい神社でした。

人によってはここはパワースポットとおっしゃる方もおられるでしょう。しかし私はそれよりも美しさに目を奪われるばかりでした。他に言葉がみつかりません。

でも言葉がみつからなくてもいいんです。美しい風景を記憶することができたのですから、それだけで満足です。

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御朱印もいただいてきました。


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これ、テンション上がりまくる。(令和二年の春の神武祭:コロナで中止)





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