モノ、コト、私と文学部
自室から見える外の色は、あっという間に青から灰に。
机の横には無造作に置かれたZINEや買ったり、もらったりした本。
大学四年。文学部生の生活を振り返りながらふと思ったこと。
「あぁ、結局文学好きなんだな、私。」
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一年。単に「本が好き」「国語ができる」「文字を書くのが好き」とかいう
浅い理由で文学部を選んだものの、志望する大学には入れずやけくそになってた。道民の私がまさかキラキラ東京大学生になるなんて〜とか思いながら理想とは違う大学、バイト、家を行き来する日々。
同時に文学部の授業にも辟易していた。
基礎を学ぶとはいってもなんで中学の国語を復習せねばならないのか。
大学の講義と、自分の知りたい文学との差、違いを感じた夏。
そんな時の精神的な逃げ場として駅前の蔦屋BOOKS STOREがあった。
そんなに大きくない、オフィス街にポツンと佇む本屋カフェ。
つるんでいた学部生に「ちょっとこれから用事あるから!」と別れを告げた私はここで一人、珈琲片手に本を読む。
たった珈琲一杯で、何冊も本が読めてしまうこの仕組みに最初はあった背徳感も、次第にこなれてカードも作った。シティボーイとかなんとか。
学部生とは価値観やら倫理性やらで距離を置き始めたころ、写真部に入部。
写真も文学に含まれるよね。部での学びはあまりないけれどそこでできた友人達、写真へ興味を持ち始め昔から好きだった美術館を巡るようになった。
アルバイト先から程近い東京都写真美術館へは展示が変わるたびに訪れてたし、森美、国立新美、上野の森、国立近代etc...と次第に範囲を広げていく。
写真もアートも、そこに映/写しだされたモノにどういう意味があるんだろ?
100%理解し得ないコンテクストを読み取るところに面白みを覚えた。
本を読む時に筆者の感情や作品の登場人物へ感情が遷移するあの現象を意図的に生み出すこと。(「エンパシー」っていうらしい。)
この時期は表参道のspiralにも月2~3で行っていた。
アートはアートでも体験できる「現代アート」。
アートのネガティヴに形容すれば「堅苦しい」「難しい」「classical」なイメージを根底から覆すような作品たち。市原えつこ、磯村暖、夏の日の潰した蚊を並べた作品。
文字化されていない、しかし意図された文脈の読み取りのプロセスに興奮を覚えた。いわゆる右脳的感覚がある程度養えていると客観的に見られることがあるとすれば、この期間の経験がかなり生きているし、自分の中に蓄積したモノが現れているんだと思う。
三年生になってもそれらは続いた。変わったことといえば、こうして文字を書くことを小中学生ぶりに習慣化するようになったことや、学術的な文献やニュースなどの冷たい文字群と触れるが増えたこと。国際交流のプロジェクトやら大学講義、あとは趣味のせい。
一年生の頃にもビジネス書や自己啓発本のような、熱そうだが長続きしない何年間か放置していたカイロのようなものを消費していたけど、それとは日にならない現実の文章。固いとか、夢がないとか。
でもそこには確実に価値はあるし、現実と目を合わせることで私は社会問題を自分ごと化して考えられた。ここでの目を合わせること、自分ごと化して考えることは確実に文学や写真・アートとの向き合い方から体得した産物だと思う。
日本語から多言語に触れ、他国の意識・他国の思考・思想との出会いもここから増えていった。「同じ人間」ではあるが、「人それぞれ違う」。
「海外だからといって全く違う思考なのか?」「東洋と西洋で分け切れるほど、人の思考・思想はパターン化しているのだろうか」書物に目を通しながら、問いかける。悶々とした。
そのうち多様性とか言う言葉の重みに耐えきれなくなって、人知れず嫌悪感を抱き、隙あらば友人に「俺、多様性って言葉いやなのよ。」と多様性の陰口を垂れてやった。そうそうそうえばこの時期に友達たちと言葉の定義や概念、価値観を丸裸にもしたっけ。
あなたはどう思う?多様性。
とやかく言うてて日は過ぎて。
自粛期間は再び書籍、文字、文字の日々を過ごした。
これまでいった国について再入門してみたり、政治の本、宗教。
(相変わらず小説は読まなかったけど。)
Webの文字にも触れるようになった。
Web magazine、Instagram、あっ、noteも。
精神的にしんどくなった時は流石に本の世界にも、他人の思考にも心を寄せることができなかったけれど、イヤホンからは文字で構成された音が流れる。お香が煙る、自室で一人、脳内に浮かんでは消える文字を感じていた。
最近。自分から文字を他人へ投げつけることをしている。場所はnoteから変わったけどそんな感じ。それとモノに再び愛着を抱き始めてきている。
振り返ると一年の本はモノ、二年のアートはコト、三年以降はどちらとも。
でも今はモノに愛着を抱いている時期なのかも。
コロナ期間にZINEというものに出会って、自分もこう表したいとか、人と合わなくてもその人に自分の思っていることを文字やイラスト、写真などで
視覚的に訴えかけることの可能性に気づかされたと言うか。それも大量生産ではなくて、完璧ではない余白の有様。温い。
文字を見るのがしんどい時は、ポッドキャストで「文字を聴く」。
それら表現ができるようになりたいと思い、性について今も発信しています。SNSで、いつかZINEで。
文学を語るには浅いし、何より正統派でも文学に溺愛しているわけでもない.
でも確実に文学に支えられてきた事実をこれまで書いた文字で証明できるし
なにより文字を書くこと、表すこと、人に見てもらうこと影響させることが私は好きだ。
「文学は役に立たない」ではなく、「役に立つように文学を解釈すればいい」と私は思う。師にでも仲間にでも、恋人にでもなる文学の柔軟性をこれからも信じて。
ご機嫌よう。
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