見出し画像

依存する事こそが、人間としての性なのか?

最近好きだからこそ、ある程度の距離感は必要なんだなぁと思う。

特に「オカルト、心霊系」のyoutubeのチャンネル。
生配信に於けるチャット間での会話が非常に怖い。
例えば心スポでの生中継での「あそこに居るよ!」的会話。
個人的に思う事なのだが、「そんなにしょっちゅう見えるなんて言うのは完全に病持ちでしょ?」っう事。(調べると事実多い)
もうはなから「見える場所に行ったんだから見える方が正しい」って言う思い込みが過ぎるから、なんでもかんでも見えてしまうと思う。
そしてそのチャンネルの言う事は何でもかんでも正しくて、自分を導く指針で目標だ!などと言い始める。
そういう完全に依存している感じの人は盲目に全てを信じ切る傾向にあるみたいでオカルトの全てを信じてある意味の宗教依存みたいな狂信者になりうる傾向が見受けられる。
正直怖い。
信じる者の批判は、神への冒涜であり、自分に対しての敵だ!と認定して攻撃を仕掛ける。
人は未知のものへの憧れが強い。
そこに変な希望を願いがちで「現場のなんともなれない現実を変えられるチャンスがそこにはある!」という根拠もない希望を願いがちになる。
後、皆の知らない事を知ってるという一種の「優越感、特別感、選民思想」を非常に感じやすく、単純に「気持ちが良い」状態をキープ出来る。
永遠に続く幸福感に包まれる。
この構造はストーカー化する恋愛の構造にもよく似てる。
人は盲目的に依存する生き物なのかも?
最近は特にそう言った傾向に陥る中高年が非常に多い気がする。
そして若い人達の方が基本「ドライ」な人が多いせいかそこまでハマる人が少ない気がする。
そして自分は四半世紀オカルト全般を愛してきてるけど、基本的に「エンタメ及び男のロマン」として接してきて楽しんでいるので「盲目に信じる」という事はしないし、出来ない。
ご多忙にもれずおっさんなのにのめり込む事が出来ない「ドライ人間」であり「広く浅く」の趣味範囲で生きているから多分一生そんな「ベタベタ状態」にはなり得ない。
執着するというのが悪い事だとは思わないが、そこにある「どろっとした関係」みたいなものが正直気持ち悪い。
良いか悪いかは別にして、「薄い興味」を持って生まれてきてるおかげである程度の距離感が保ててる故に「健全に楽しむ」事が出来てるのは幸いだ。
ハマると不健全になるのは何故だろう?
独占欲?選民思想?とにかく「自分のモノにしたい!」という気持ちが強くなるのはどうしてだろう?
だから何でも「我が我が」になる人間という生き物。
共産主義が一生達成出来ない理由。
個人的欲望が第一になる癖に、群れたがる。
同調圧力や一つを敵にした時に起こるイジメ等群れると起こる醜い争い。

人間はめんどくさい。
人間は醜過ぎる。
人間嫌いが加速してまた部屋に篭りがちになる。
嫌だ嫌だ。

世の中は、嘘にまみれてる。
みんな嘘ついて暮らしている。
でもそれを責める事など出来ない。
個人的には嘘をつき続け相手を上手いこと騙し続けていればそれは罪じゃないと思う。
そうして世界は社会は上手い事回っているもんだから。

はて、またブレにブレまくっている文章になってしまった。
要するに何が言いたいかと言えば、依存するよりは、孤独の方がマシなのかも?っう事。
でも寂しいのは人を狂わしやすい。
ああ、どっちもどっちだわ。

何でもかんでもだが、人間「バランスが大事!」

以上!

何?この結論?わけわからん?

無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄あああああ!!!

ふぅ。

続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?