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プロローグ的思い出話

兄貴の不調の原因は、インフルエンザだった。
コロナ→インフルエンザ→リーチ一発ツモ、役牌で倍満みたいなもんで、薬剤師も「珍しいですね、うちじゃ初めてですよ」と言われた。
しかし医者の処方する薬は本当凄いなと。あんなに苦しそうだったのに薬飲んで1夜経ったら、自らケーキを食うくらいまでに回復した。
伊達じゃない。
けど薬は時に人を殺してしまうものだって事を俺は忘れない。

今日は、自分の為に病院周りをした。
定期的に飲んでる喉の薬と血圧の薬、そしてコロナ後遺症で咳痰が凄いのでその薬も頂けたらと思い、いそいそ出かけてみた。
久しぶりの自分の為の行為にちょっと後ろめたさを感じてしまう。
今まで母親中心の生活で自分なんかそっちのけで彼女の為に全てを出し尽くしてた。
その生活が最も容易く一瞬でコロナに奪われてしまった。
今も絶賛尻の座りの悪いなんとも喉に魚の骨が刺さったかの様な生活感でなんとも居心地の悪い生活をしているからか、いざ自分の為と動くとなんか「違うな」感が出てしまう。困ったもんだ。
ついでに今日は歯医者予約してた日だ!行くしかあるまい。いやはや。

病院周りも無事終了し、電話にて色々挨拶周り。
今日は色々「周って」ばっかりだ。

さて、今日から本来の目的「母親との介護生活の引きこもごも」を書いていこうかと思っていたんだけど、前にどっかで手記を発表するかと思って書き溜めたノートがあったはずなのに幾ら探しても行方不明で出てこない。
なのでかなりアバウトになると思うが、出来うる限り思い出しながら書いて行きたい。


思い出して気がついたアルツハイマーの予兆

時は2015年。
その頃、僕は飲食店でバリバリ現役で働いていて夜中中働いて朝帰って寝るみたいな生活をしていた。
仕事の都合上と家の借金の為何年か前から同居していたけど、生活圏が全く違っていたから同居してても別居してるみたいな生活だった。
その頃の母親も保険外交員のサービスレディを退職して好きな事をしながら土日昔からお世話になってた競馬場内のお弁当屋さんで特別にアルバイトさせてもらっていたけど、そこも撤退を余儀なくされて辞めてしばらくしてた頃だった。
もともと「ワーカホリック」気味だった母親は、多分手持ち無沙汰だったんだと思う。
無限に広がる時間と暇。好きな本を読むのも、好きな踊りを踊るのも、好きな歌を歌うのも、1人でやるのは嫌で皆んなとワイワイ言いながらやるのがすこぶる好きな人だったから、孤独との付き合い方に考えあぐねいていたんだと思う。
相談出来る人はほとんど居なくて、居るのが昔から剃りの合わない父親だけで、話せば喧嘩、よれば喧嘩の間柄。それがほぼピッタリ寄り添っているんだからストレスは相当なもんだったと想像する。
何度も別れ話が出ていた。一度完全に別居した事もあった。
しかしながら「子供の為に我慢しよう」「片親はダメだ」の昔くさい教えに縛られてまくっていたからすぐ復縁してた。
俺たちも一度完全に別れようと母親に勧めた事もある。「俺達は大丈夫だから」そう言って何度も説得した。でも母親は首を縦に振らなかった。

ともかく母親はストレスを発散させる場もなく我慢我慢を繰り返していてきっとかなり限界だったんだろう。
ある日「夜中に家に誰か来るんだよ」と「泥棒だよ」とかなり怯えて訴えてきた。
確かにその近年、近所で空き巣の事件が多発してた。
その頃母親は一階で1人寝ていて、男達は2階のそれぞれの部屋で眠っていた。
不安で不安で仕方がないと訴えてきた。
だから兎に角真意を確かめたいと、防犯カメラと防犯ブザーを出来うる限り外に付けた。
それを毎日仕事終わりの朝に確認するという日々が始まった。

映るものは、野良猫、虫。
それ以上でもそれ以下もない。
「多分気のせいだって、それか夢見て寝ぼけてたんだよ」
「そうかなぁ、それかあれかも幽霊かも」
「出たよ、確かにママさんは、霊感強いけど解るでしょ?それがリアルか否かは」
「まぁね」「頼むよ」
そんな感じでいつの間にかその事は言わなくなっていた。

今考えるとその頃から何である。
綺麗好きな母親が掃除を少しずつしなくなって、兄貴のお弁当を作るのをしなくなり、炊事洗濯をめんどくさがる様になり、ふさぎ込み布団から出るのが億劫になっていった。
でも僕は生活に忙殺されていて全く気がつく事がなかった。
兄貴は少し気がついていたみたいだったけど「風邪か何かだろう?母親がそんな訳の分からんものになるはずない」と高くくっていた。
今考えると確実にサインは出てた。
そしてその2年後、事件は勃発する。

続く。

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