女のSNSの世界で行う筋トレ
先日ある業界のとあるお偉さんが、facebookやめちゃおうかな、とつぶやくのをみて、笑った。
同じレベルの話を、知り合いの事業者界隈からも、子育て中の友人界隈からも、聞いている。(前出の投稿の真偽はさておいて)
そう愚痴ってくれる人の話を聞きながら、人っておもしろいなぁとおもう。
SNSを仕事に使う友人はとても多く、古株もいれば駆け出しも出てきたり、いなくなってしまったり。変わり身も入れ替わりも激しい。
女のSNSの世界はカオスである。
プロモーション投稿の波間に、友人のSOSや、子育て自慢や仕事自慢が流れる。その合間に、懐かしい中学の友人の投稿が出てくる。
ひょっこり同窓会よろしく再会しては、流れた時間と人の変わらなさを感じる。なんと苗字も変わって今じゃ家の近所に引っ越してきたらしい、など。リアルに再会したケースも何回もある。
SNSを辞めたいとおもいつつ、辞められないのは、人との縁を切れないからだろうか。
そんな中、ちょっとしたSNSあるある事故を起こしてしまった。事故というのは大げさだな。車道にうっかり石を置いてしまったようなこと、と言えばいいだろうか。
小売業を営む知り合いの文章を見て、ばか素直な感想を漏らしてしまった。お疲れの子育て事情と食事の苦労を漏らした友人の投稿に、おもわず「そのご飯わたしも食べたい」と素直にもらしてしまったのだ。
そのわたしの投稿以降は、彼女の子育てをねぎらうコメントばかり多く寄せられていた。何かの口火を切ってしまったのかもしれない。それとも、みんなバカ素直なコメントを待っていたのか。
彼女はその投稿に、珍しく誰にも返信をしなかった。表示も上がることなく、あの言葉はSNSの川に流れていった。
彼女は気を取り直したのか、その後は、いつものプロモーション投稿が連投された。本当に気を取り直したのかもしれない。
本当のことを言ってしまえば、彼女の育児にも売り上げにも、わたしは何ら関わりがないし、もっと言えばその子どもたちの未来にも関わりを持つ可能性は低いだろう。つまり外野は黙ってろというヤツだった。
SNSで商売をしている人との付き合いは、そういう配慮がめんどくさい。
仕事はその人の表現だ。だけどその表現の中にある、等身大の気持ちに感づいてしまうとき、見えない境界線を軽く超えてしまう厄介なクセが自分にある。
じぶんがイイねを付けることで、その家の子どものオヤツをグレードアップするかもしれない?そんな正義心でもないし、またそんなに簡単な世界でもない。
結局それが売り手の力量ということか。
表現の錬金術に魔法のようなものなどなく、如何に定めるか、如何に自分の中をそぎ落とすか。その地道な筋トレそのものが楽しくないなら、SNSによる商売に向いてないということかもしれない。
あの音楽業界のおえらさんじゃないけど、SNSを辞めようかどうか悩む。じぶんでも2つのグループを管理しているが、思い切って消してしまいたい気も、ないわけじゃない。
ただ、この文字を見れるのがこの画面の中だけだ。
結局それが理由でアプリを消すのに躊躇している。
みんなの文章を読みながら、文字はすごいなとおもう。
文字はすごい。
言葉は裸だ。
この、文字への執着、どうかしてるぜ。
とおもいながら、SNSを続けている自分もやっぱり筋トレ中なのかもしれない。