介護にかまけすぎて、子どもが不登校になった。育児&介護のふっつーの話。

11年前、彼氏のお母さんがクモ膜下出血で倒れた。
その日、退社後に友達と火鍋を食べる約束があった。
彼からの急な知らせを受けて、どうしたらいいのかわからない私に、隣にいた上司は「今すぐ帰れ」と言ってくれた。(簿記受験のキッカケもあの時の上司がくれた問題集があったからで、本当に頭が上がらない)


深夜2時のICUの前で、初めて彼の家族と対面した。
2回目に会う「彼のお母さん」は、脳のCT画像としてだった。

あ、ここから先の話は長いので端折る。
それから11年後の今、2ヶ月に1度の通院付添いは、わたしだけが担当している。(端折りすぎている)
2年前から今年の2月に義父が亡くなるまで、隔週で義父の病院に行き、隔週で義母宅へ行き買い物をしていた。つまり毎週、人の世話をしていた。

・・・おかしい。
2行程度で終わる内容ではないのだけど。
言葉のマジックを解くためにも、いちいち数字に変えてみる。


●義母→(通院6回×6時間)+(買物2回/月×12か月×4時間)×2年
=264時間

●義父→通院2回/月×12ヶ月×6時間×2年
=288時間

●合計介護時間=552時間
(緊急呼び出しを計算に入れていないので、実際はこんなものじゃないし、義母通院時間の半分も夫はいない。が、夫の不足分は実際過剰分で相殺できるものとする)
●夫の休日→52日×0.75(75%程度の実現率で休日が週1日ある)×日中12時間×2年
=936時間
(祝日、盆休み、年末年始を計算に含まず。なお、労基法に抵触しているように見えるが、休日の出社は本人の意向によるものと思われる。会社は休めと勧告している)

さて夫は、ただでさえ少ない休日の59%を親のことに費やしている

●子どもの休日→161日×日中12時間×2年=3864時間

子どもにとっては、3864時間の休日の起きている時間の内「家族と過ごす時間」は24%で、さらにその中で「家族だけで過ごす(親が家にいる)日」は、384時間

つまり、子どもの休日3864時間のうち、親が介護をしていないのは10%の時間だけなのだ。

家族が揃う月に4回ある休日の75%を、家族そろって病院に行く。子どもの主観で言えば、全休日の9.9%のどこかで「お休みの日にパパとママと遊びに行って楽しかった日」は100%以下の確率で実現する……(計測不可よ、ここは…)何%だったろう。2桁あっただろうか…。2年で何日あったか…。

息子の小学1・2年生の過ごし方を数字に落とすと、えげつない。


子どもが小学校に入ってからすぐにこの生活は始まっていて、本当にかわいそうなことをしたとおもう。
もちろん、幼少期に「人が高齢になること」の一部始終に触れる経験が出来たのは、悪いことではないだろうけど。

でも人を想い図ることばかり知ったとしても、人から想われる実感がないなら、そんなの机上の空論だし大人の詭弁にすぎないと思ったろう。
「大人、ふざけんな」と言われても仕方ない。

もちろんそうなる前に気が付けばよかったのだけど、わたしはわたしで義家の2人介護の上、わたしの母が鬱を大いにこじらせているのと、父が自営を大いにこじらせている。
日々が多様な行為を含む「介護・人の世話」に染まり、しっちゃかめっちゃかで「高齢、ふざけんな」と思っていた。


あのときに、子どもが学校に行けなくなった日々のことを夫は知らない。

もっと相談すればよかったのかもしれないが、相談相手にならなかった。
どの角度から夫を見ても「子どもが学校に行けない」負荷を受け入れるキャパシティは無いように見えた。

WISC™-IV知能検査の結果を見せても、普段の様子がわからない夫には、数字の延長線上にある子どもの涙が想像できないらしい。

何を話しても「これ以上は無理」と、夫の顔に書いてあった。
学校に行けない理由を聞くでもなく、気晴らしをするでもなく、駄目なことを叱るでもない。モノを与えて喜ばせるしか方法が思い浮かばないのか、玩具は山のように増え続けた。


果たして夫のこれはキャパシティの問題なのか、そもそもの素質なのか。それとも生育環境で培われたセンスなのか。
いつも、義母と義父と、義弟を通して理由を眺めていた。


嫁というのは堂々と人の家の金銭事情に顔を突っ込んだり、生育環境の詳細を聞ける点では、なかなか珍しい立場だとおもう。
やろうと思えば意外と何でも出来てしまう。


それらしい所に落ちている岩が「お地蔵さん」に見えるように、嫁らしい立場に仏みのある顔で立っている私には、多くの人がのっかってきた。


ハンカチを落とした人がいれば拾って渡してやるのと同じ感覚で義母と義父に付き合っていると、どんどん仏に祭り上げられていく。
義弟は病院に行かなくなり、義妹は我関せずで、長男はこの状況に危機意識がない。
義弟も義母も、大人しくやることを手際よくやってくれて実の長男ほど口うるさくは言わない「嫁」は都合がいいのだ。

わたしの仏度が上がるにつれて不思議なものだと思うようになった。
この人たちの中でわたしだけは、いつだって縁を切ることも、この日々を終えることも出来る。
それがとてつもないリスクだと思えなくなってしまったらしい。
この仏度はじぶんでも意外なくらい高いようだけど、わたしには餓鬼になりそうなくらい哀しい思いをした、小さな子がいた。わたしの天秤が子どもに傾けば、当然彼らは滑り落ちるに決まってる。キーパーソンは身内が望ましい、そう主治医がよく言う。その意図はわたしの共感する部分とは少しズレるかもしれないけど、そこまで遠くもないだろう。少なくとも、身内は戸籍から抜けることはない。


嫁と岩は似ている。とよく思う。

実態がなんであれ、観察者によって意味づけをされて、気が付かない内にその有難さが祀り上げられていく。その有難がる信仰が、どの怠慢から発生した心持なのか、気が付かないのだろうか。知らぬが仏というけれど、7月からの相続税の法改正を知らない仏は、今どきいない。介護者も相続の権利を得るようになる。仏なんて、ひとことも言ったことはない。わたしは最初からずっと、ただの養育者で第三者で、ハンカチを拾い続けてきただけなのだ。40年ぶりと言われる相続税法改正は、嫁介護信仰のマジックを解けるか、もの凄く見ものであると思う。


育児中の介護はきれいごとではない。短期的長期的に、何かしら誰かの命がかかってしまい、悠長なようで悠長にしていられないし、かといってイライラしてもいられない。そして、その全部の禁忌に止む無く触れてしまう。不調が一番困る。動かないと誰かが簡単に死んでしまうときがあるのだ。本当に、不思議なことに。これが2019年の日本の話なのだろうか。

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