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感想:未来のミライ

満月で台風の日、太平洋では満潮時刻
国土に大きな風の塊が乗り上げた。
地元は海辺に近く
広い砂浜に遠浅の海がやってきたに違いない。

その日、東京という平地で
わたしは子どもにせがまれて映画を観た。

『未来のミライ』

とんでもない時代がきたなとおもった。
あれはリトマス紙だ。
恐らく本当にいろんなものの
中和剤、中和点のような作品に見えた。


子どもにリアルを。大人にファンタジーを。
どちらかに偏っているのか
リトマス紙のように感じる。
圧倒的に強烈な、何かの疑似体験アトラクションのような、意味不明な感覚。


これまで全ての同監督の作品は見ているが
今回の作品で初めて確信した。
同監督の作品は、視野狭窄される感覚が凄まじい

強烈に、これを見ろ、と絞られる。

その上、本当のことはすべて背景に蠢いているのだ。
光の中の煙、砂浜に置かれた木船、夏の日差し。
なんてこともない、普通の山。


2Dのくせに、圧倒的3D感
一体どういうことなんだ。


離人症が必死で対象を摑まえる感覚を、
させられている、感覚。
なんの疑似体験なんだ。

わたしは、ファンタジーの中にこそ
厳しいリアルがあると思っている節があり、
逆を言えば**
**ファンタジーこそが、リアルを追求するツール

だとも言えると感じてもいる。


しかしファンタジーに逃げ込んだ人間の末路は知れている
そこは隠された闇のラビリンスなのだ。
永遠に彷徨ういくつもの屍が、横たわってもいる。

その屍が見えずにファンタジーを歩む者に
出口は現れない。
迷い込んだ者の自己責任だ。
自力で這い出るまで、致し方ない。

しかしリアルだけを歩けば必ず壁が生じ
壁は越えるほどに高くなる。

ついには登りきれないまでに
雲に届く高さになった時、
あぁもうだめだと。
ふと横を見ると、ファンタジーの入口がみえる


そこからはまるで夢のように足取り軽く歩める。
しかし逃げ込んでいる自覚は、出口の切符なのだ。


どこまでも
壁を越えるためにラビリンスを歩む者だけに
出口がみえる。
いや、這い出ることが出来る

そして迷路の壁から見下ろした
光景の美しさにゾッとする。
ここは生き物の世界ではなかった


だからまた壁に対峙したとき、
今度は、あの壁は壁でなかったと気づけるのだ。

ここに壁は無かった。
なぜそう見えていたのか。


二足の草鞋を履くのが本来の姿なのかもしれない。
中にはとんでもない猛者もいて
いや宇宙人のように、
初めから浮遊していて壁を超科学で消してしまう。

そんな人にリアルもファンタジーもない。
ごっちゃな異端児。
トリックスターの破壊者はとことん自由人だ。
道などないことを知っている。
好きなところを歩む。
この足跡が道だと言わんばかりに。

全ては物語の主人公次第で
主人公はどこまでも観客然として
眺めて遊んでいる。

(なんともはやな、感想である)

________________________

映画の感想なんて書いたことがない。
だけど、そのとんでもない時代と
とんでもない日に乗っかって書いた。

とにかく今は宿題を課している、八月は宿題月間。
かけかけかけ。
未熟だからとか、拙いとか、満足できないからとか。
こうじゃないとか。

そんなんじゃないんだよ、おまえは。
みっともない姿をさらしたくないだけだろう。

そんなもの知っている。

そんな無駄なものを握りしめてるから、
いつまでもグダグダしてんだよ。
そんなクソみたいなプライドをはやく捨てろ。

次へ行け。
等身大を見ろ。

お前のファンタジーはお前の現実だ。