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その落し物はもう拾わない。

どの文章も書き終わらなくて困っている。
分岐が次々と生まれ、あちらこちらに向かう電車は増え続け、いつのまにかどこかへ去ってしまう。乗りかけた乗客を置き去りに。
そんなこんなで、いくつもの下書きが眠ったまま、鍵のかかったロッカーで借り主を待っている。

どこで鍵を落としたのだろう。ポケットを叩いてもビスケットひとつ出てこない。いつのまにか列車とホームの隙間に、落としたのかもしれない。

この動かない、列車。

早く乗ってください。車掌さん。

車掌さんはいま長いお昼休みに入ってしまい、休憩室から出る気配がないようです。

車内モニターに映る乗客たちの中にはチラホラと降りる人もいる。空いた席にはもう2度と誰も座らない。くぼみを残した座席が車内に点々と増えていくのを、僕は休憩室で力なく眺めた。

いつもこの時間に乗るサラリーマンが時計を見て、振り替え列車に移っていった。それを目だけで追う。僕は鍵を入れていたポケットに手を突っ込んだまま、ずっと、途方にくれている。
この休憩室から出る鍵が、見当たらない。

自戒を込めて、恣意的ではない。いつか落としそうだと、ずっと思っていたから、鈴までつけていた。ちりんと呼び戻す音を、落とさないための努力を、どれだけしていたか。たしかに鍵を落とす前に、レバーが握り辛いことはもう上司に伝えていた。あれは落し物の前触れだったのか。
だとしたら、ずいぶん、素直な鈴だ。


あの仕事を僕は好きだった。

次々と乗り込む乗客たちの服装や持ち物を、僕はとてもよく眺めた。季節は何層ものグラデーションで彼らを彩った。楽しげな声、無言でカタカタとパソコンを叩く音、外を眺めぼんやりする顔を横目で確認して、コントロールレバーを出来るだけ優しく押した。
毎日毎日、長細い鉄の上を垂れる黒い電線を押し分け、遠くのホームからこちらを見つめるあの人たちを、乗せた。ただそれだけのことが、僕には誰かの1ページを創る仕事にしか思えなかった。慎重だった。慎重すぎたのかもしれない。
ブレーキさえ活字となり、白いページに刻まれてしまうのだ。うまくレバーが握れない日なんて、車窓の向こう側にどれだけのお願いをしただろうか。
せめて眺めるに値する景色が映ればと。

あのレバーが、もう握れない。どこにも鍵がない。
無くしてしまった。たぶん、自分で。


ホームの時計は刻一刻と進む。困った。ポケットを探ってばかりでもいられない。なのにその動作をやめられない。この探し物を心地良くすら感じているのは、この部屋に時計がないからだ。そしてずっとくるぶし辺りを吹いている、少しの風。この部屋の、いまや唯一の出口となってしまった後ろのドアから、緑の匂いを含む風が、もうずっと吹いている。陽の中を通ってきたのだろう。電車に乗る前の人たちの声と生活の匂いがした。

こっちのドアから出るしか、ないのかな。ないんだろうなぁ。

そんなことはわかっているし、もちろん僕は鍵がないと気づいてすぐ、しぶしぶながら帽子と上着は脱いでいた。今はもうネクタイだって外してしまった、のに。なのにまだ、足が動かない。その足の隙間と、ボタンを外したシャツの胸元に風がすうすうと抜けるのだ。きっと今、途方に暮れているだけでもない。吹きさらされている内に、あのレバーも乗客の顔も、白いページも、少しずつ僕の中から薄れ、消えた。霧が晴れるように。しばらくこうして困惑を盾に風を受けていると、ようやく、もっと緑を吸いたかったことを思い出した。でも慣れない深い呼吸に胸を膨らませたら、むせてしまった。この緑は、僅かでも十分な威力で僕を操作できてしまう。

このドアを開けて、この駅から出たら、僕はもう車掌さんではなく、コンクリートの上を歩くひとりの男に、また戻るんだ。

そう思うと、この緑の匂いが胸を堪らなく疼かせる。不安と期待が足を押し合う。もど、れる?もどる、しかない?

あそこへ行けば、もう鍵を無くさないための、あの鈴は用が無くなるのだろうか。

首を傾げながら惰性でモニターを眺める僕を、緑の風はカラカラと笑った。ウダウダとあのドアを開けられない男を観念させるように、いや、撫でるように。

ここ数週間は文字にもならずにいましたが、まずは仕事を新たに探すことにします。たぶん、きっと。

車掌さん、あのドアを開けてくれ。カマン。