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集中読書、集中記憶⇒”つんどく法”

ものを調べるときに、本を読んで、カード、あるいはノートを取るというのは、今では最も正統的な方法となっている。
けれども、全ての人が、そういうことをしているわけではない。
そうしなければ、知識の整理ができないわけでもないのである。

カードにしても、ノートにしても、作るのは生易しくないが、アフターケアともいうべきものが大変である。よほど管理をよくしないと、いたずらに山のような”資料”を抱えることになってしまう。

人には向き不向きということがある。他の人にとって、どんなに優れた方法であっても、自分でやってみるとうまく行かないということは、これに限らずいくらでもある。

当たって砕けろの無手勝流の読書法

まず、テーマに関連のある参考文献を集める。
集められるだけ集まるまで読み始めないでおく。
これだけしかない、というところまで資料が集まったらこれを机の脇に積み上げる。
これを片っ端から読んでいくのである。余計なことをしていては読み終えることができない。メモ程度のことは書いても、ノートやカードは取らない。
全ては頭の中へ記録する。もちろん、忘れる。ただ、ノートに取ったり、カードを作ったりするときのように、綺麗サッパリとは忘れない。
大事な数字のほかはごく要点だけをノートに記入する。
そのほうがずっとよく印象に残るという。
字を書いていると、そちらに気を取られて、内容がお留守になりやすい。

関心がものを言う

もうひとつは関心が物を言う。
メモやノートを取らなくても、興味のあることはそんなに簡単に忘れるものではない。忘れるのは、関心のない何よりの証拠である。
知りたいという気持ちが強ければ、頭の中のノートへ書き込めば、なかなか消えない。
もっと頭を信用してやらなくては、頭がかわいそうだ。

かりに、関連文献が十冊あるとする。これを一冊一冊読んでいく。三冊目くらいから互いに重複するところが出てくる。そうすると、これが常識化した事柄、あるいは定説となっているらしいと見当がつく。前の本と逆の考えや知識があらわれれば、ここでは諸説が分かれているのだとわかる。
はじめの一冊が最も時間を食う。したがって、まず標準的なものから読むようにする。同じ問題についての本をたくさん読めば、あとになるほど、読まなくても分かる部分が多くなる。最初の一冊に3日かかったとしても、十冊で30日という計算にはならない。一気に読み上げるのは案外、効率的である。
読み終えたら、なるべく早く、まとめの文章を書かなくてはいけない。
ほとぼりを冷ましてしまうと、急速に忘却が進むからである。
本当に大切なところは忘れないにしても、細部のことは、そんなにいつまでも、鮮明に記憶されているとは限らない。

集中読書、集中記憶によって、短期間、ある問題に関しての博覧強記の人間になることができる。
いくら忘れようとしても、いくつかのことはいつまでも残る。
これは、その人の深部の興味、関心とつながっているからである。
忘れてよいと思いながら、忘れられなかった知見によって、ひとりひとりの知的個性は形成される。
本を積み上げ、集中読書を行うことは、一見、なまけもののように見えるが、これは古典的な方法であると同時に、現代的でもある。我々がとくに意識しないで勉強しているのはこの集中読書の変形によることが多い。

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