変だと思ったら発達障害だった
ADHD(の傾向がある)と診断された。
これは私の発達障害にまつわるごくごく私的な記録として残しておく。
何かの役に立つことがあったら良いが、何の役にも立たないかもしれない。いや、きっと立たない。
ADHDとは
不注意・多動性・衝動性の3タイプのいずれか、または混合の症状が出てくる発達障害の一種。
私は不注意型が強く、衝動性が少し。子どもの頃は衝動性も強かったけど、精神科の先生いわく、衝動性は大人になる過程で薄まることがあるらしい。
前頭前野の伝達物質の調整機能の偏りが原因なのではないかと、考えられているらしい。
私(38歳女)のケース
これまで仕事はそれなりにこなしてきた。
特別出世したり、ということでもないが、それなりの立場にはいさせてもらい、役にも立っていた自負のようなものもある。
今は独立して自分の事業を持っていて、ありがたいことになんとか食えている。
でもずっとこの日常を失うんじゃないか、という恐怖と隣り合わせだった。
なにしろ、不注意型の私はすぐにいろんなことを忘れて/抜けてしまう。
プライベートでも同じ。
習慣になっているかどうかは関係ない。存在そのものを忘れる。
何度でも同じパターンの判断ミスをする。
忘れる瞬間は記憶がすぽんと抜ける。そこだけというより、そこを起点にして過去まで全部存在自体がなくなる。
判断が鈍るときもある。頭を働かそうと頑張っても、外から脳みそ?を吸い上げられているような、もやを注入されているような感覚。
どちらもコントロールを急に失うような感覚が共通している。
忘れていたことも判断ミスもしばらくしてふと思い出しては、
え、なんでこんなこと忘れたんだろう、なんであの時あの判断をしたんだろう(しなかったんだろう)・・・と、
自分がしたことなのに、にわかに信じられないような気持ちになる。
そしてそう思ったことすらも忘れる。
大小含めると一日に何度も起こるので自分はそういう性格なんだ、ちょっとぼけてるんだ、と思う。思っていた。
そういうわけで、突然やってくるこの「忘れ/抜け」をどうにか起こさないように、普通の水準を維持できるように、子どもの頃から神経をすり減らしてきた。
でもどんなに気をつけていても起こってしまう。
そして起こると焦る。焦ると萎縮する。自信を失くす。失敗に敏感になる。
何かをやらかして、日常を失うのではないかという恐怖が常に付きまとう。
それが原因か頻繁に悪夢を見る。
夢はだいたいこんな感じ。
状況も登場人物も違う。でもパターンが同じ。
受診するかしないか
ADHDは20人に1人の割合でいるらしい。結構いる。きっと皆さんうまくつきあっているのだろう。なぜならこれは病気じゃないから。病気ではないから、治癒するものでもない。
落合陽一さんのこの記事を読んだ。
何かこの症状に名前をつけてもらえば、楽になれるんじゃないか、言い訳できるんじゃないか、
という気持ちがまったく湧きあがらなかったわけではない。正直、楽になりたい。
でも落合さんの言っている、周りに協力してもらう、感謝する、自分でも対策を講じる、というのが、結局は本質的で妥当な策で、それしかできないのだろうなあと思った。
それならば医師の診断は必ずしも必要なのか?
一方で、トナリさんやなつおさんのこの記事を読んだ。(二つとも本当に素敵な記事です。元気をもらいました。)
お二人は、自分の症状をちゃんと知った上で、ご自身のいいところを見つけて、楽しんでいる。
自己分析をして、周りからも理解を得て、うまく付き合っておられる。
一度向き合ったからこそだ。
前に人に迷惑をかける事件を起こしてしまった。
そのとき、相手方に言われたことがある。
いつも最後が甘い、どう考えてもフラグが立っていたのになぜ事前に回収しない、と。
その通りでしかなくて、ただただ謝罪するしかなかった。
会話の途中で、ふと「頭がおかしかった」と口をついて出てしまった。
その時相手は、
「それは違う。それがあなたの正常だ。そんな言葉で逃げちゃだめだ」と言った。
それもまた、その通りだった。
「頭がおかしい」と、
まるで第三者が私の意に介さずやったんです、私のせいじゃないんです、
と他人事のように表現した。
それもまた甘えだと自分を戒める一方で、ふと出たその表現に妙にしっくりもきた。
どこかコントロールが外れている感覚。
これが私の「正常」?どこからどこまでが私なんだ?正常ってなんだ?
やっぱりちゃんと、受診しよう。
できる限り、事実に忠実に、自分の「正常」を知りたい。
その上で打てる対策を打つべきだ。
全部自分で解決できるなどと思わず、専門家の力を借りる、薬も必要なら使う、周囲の理解も得る。
それがこれまで迷惑をかけた方々へ、過去は取り戻せないけど、せめてもの償いになるのではないか。
自分の弱さも含め、これが自分なんだと、認めることができるのではないか。
そういうことで、精神科を受診した。
結果は、冒頭の通り、ADHDの傾向がある、というものだった。
やっぱり。ああ原因がわかってよかった。これで対策ができる。
という安堵の気持ちと同時に、
これまでの人間関係の中で、がんばらないと、と表面張力ギリギリに保っていたものが決壊してしまった。
現実を直視するのは甘くない。
あまりにも長い時間、無自覚に押しこめていたものがボロボロと崩れた。
もちろんそれを望んだのだし、これからは良い方に向かうのだからこれで良いのだ。必要な痛みなのだ。
分かっていても心が追いつかない。
ADHDと診断された人は、それまでの苦労と安堵でその場で泣き崩れることがあるという。
本人にしか分からない、抱えていたものがそれぞれにある。
社会の中で生きていくのに、自分はこんなにも必死だったんだ、と自覚した瞬間にギリギリで保っていたものをせきとめきれなくなるのだろう。
もちろん、障害がないから苦労がない、なんてことはない。
それぞれがそれぞれに抱えるものがあって、誰かが誰かより苦労しているなんて、そんなジャッジは他人には下せない。
何かを傘にきてその中に閉じたら、他人の別の痛みを許容できなくなって、自虐のマウント合戦になってしまう。
そんなことのために障害を使うなら、受診しないほうがいい。
それでも結果的に、診断を受けて、よかった、と思っている。
過去をあれもこれも障害だったのか、と、妙な言い逃れのような気持ちになることもある。ただ自分が楽になりなかっただけなのかもしれない。
楽になりたいから、と、今後を意識的に作っていきたいから、どちらも本当だと思う。
言語化することへの憧れ
ADHDの特徴として、頭の中が常に連想ゲーム状態、というのがある。
これは上のトナリさんの記事でも紹介されている、このtwitterが本当にうまく表現してくれている。
まさにこれが常時起きている。
忘れてしまうのは多分、思考がどんどん進んでしまうから、
今やっていたことも思っていたことも定着せずにすぐに次のことにうわ塗られてしまうからだと私は思っている。
日常生活でこれなのだから、何かを意識的に考え始めるととんでもないことになる。
あらゆる方面へ連想が広がっていき、頭の中で収拾つかぬままどんどん進んでいく。
外から見たら何の変化も見られないかもしれない。でも頭の中は常に運動会。
その時に何か尋ねられようものなら、
何をどの尺度でどの程度取り出してお見せしたらいいかが瞬時に判断できない。
いろんな尺度の考えが入り混じって統一感のない、雑な表現を前に、げんなりする。
ああ、テレパシー使って私の頭の中勝手に見て、と思ってしまう。
言語化することが、とても難しい。
すぐにパッと言語に置き換えて表現する人が、羨ましい。
羨ましいのでtwitterやnoteや日記を使って、
言語化する訓練を長らくしている。
いまだにうまくはできないけど、その努力はこれからも怠りたくない。
美しく言語化することにずっと憧れている。
本に惹かれる、言葉に惹かれる
私の頭の中にしかないはずの思考の片鱗を、
言語によってきれいに表現されるものに触れた時、すごく感動する。
美しいと感じる。
本が好きなのは多分そういう理由だ。
本だけじゃなく、言語を使って思想や感情や心の機微がぴたっと表現されているのを目にすると、心が震える。
美しい。
短い文章なのにその人の人生が透けて見えるもの
感情がむき出しでゴツゴツしたもの
例えがとても秀逸なもの
自分の中にはない語彙で丁寧に表現されたもの
羨ましさと同時にそういうものに触れられてじんわり幸福感をおぼえる。
これから
ADHDの確定診断は難しいらしい。
症状から「傾向がある」とまでは言えるが、確定診断とするためには臨床結果をみたり、親から幼少期の言動について聞き取りをしたり、長期にわたる。
薬を飲み続けて症状を抑える人もいれば、
ここぞという時だけ薬を使う人もいて、
薬の効いた感じを参考に、服用せずに対策を組み立てる人もいる。
どれを選ぶかはそれぞれだけど、私は薬を飲んでみることにした。
結果、効果は出て、障害がない人の頭はこんなにも冴えわたってるのか!と人生初めての経験をした。
副作用は日によってまちまちで、ひどいときは3,4時間起き上がれないほどひどい貧血と吐き気がくる。
おそらくずっと服用し続けることは難しい。でもこういう対策があるんだ、と思えることは、その選択肢がなかった頃に比べたらずっといい。
一生つきあっていくものだから、どこかのタイミングで家族や仕事関係者、友人にも話さなければいけない。
きっとみんな理解を示し、協力してくれるはずだ。
でもまだできない。
哀れみの視線を向けられること、(特に親に)責任を感じられてしまうこと、何か言葉をかけられることに耐えられそうにない。
「つらかったね」「気持ちわかるよ」「私があの時こうしていれば」「かわいそうに」
という言葉は実はものすごく
自分と相手をきっぱり分けた傍観の結果で
しかも結局相手を思っているようでいて、そこに私はいない、
それを無自覚に、条件反射的に発されてしまうだろうなと思うと、受け止めるエネルギーが今はない。
相手を責めることはできない。
精一杯のやさしさを向けようとしてくれているということは分かる。
かといって胸の内にしまっておくこともつらく、こうして誰の目に触れるか触れないか分からない程度に、
書いておくことにした。
いろんな人がいる社会を、施す施されるの関係を超えて、ただそのままで受け入れられる日は来るんだろうか。
少なくとも自分は、意識的にそうでありたい。
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