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Super Lady

straykidsがメットガラでアジア人差別を受けた件。黒人だけ保護されればいいのか。差別撲滅に向けて動いている様に見せかけて、世界の根本は何にも変わっていなかったんだなと痛感させられた。


ハリウッド映画、ディズニー映画まで、多様化、差別撲滅を掲げる時代。
少し前にはアリエルの黒人起用が問題になった。

"黒人を起用する" "女性を多く採用する"
どう受け入れていくべきなのか。


LGBTQ🏳️‍🌈が謳われる昨今、私自身はストレートなので、本当に心から寄り添うことはできない。
必要以上に保護しようとする体制に疑問を覚える。
同性が好きだから、何なのか。と言ったら言葉が強く聞こえてしまうが、"人"を好きなことに変わりはないはずで、人to人の感情として一括りにしてはいけないのか。
"区別"しなければ、容認できないものなのだろうか。一色単に、もっと、丸っと受け入れていきたい。映画「チタン」くらい寛容に、車とセックスするのを眺めていられるくらいには、大きくありたい、世の中はそうあるべきだ。
時代に合わせて、多種多様な恋愛が作品でも描かれるようになってきた。
恋愛映画でひとくくりにすれば良いものを、クィア映画などと区別が多くされている。

殊の恋愛を善として、エモーショナルに消費している現代に疑問を覚える。


映画「バービー」や、(G)i-dleにおける歌詞など、強い(?)女性が最近多く謳われる。

「君は金髪のバービー人形が欲しいって?ここには無いし、私は人形じゃ無いよ」(tomboy和訳)

女性は家事、女性は可愛らしくいるものだなどの固定概念は悪だとされる風潮が強い。

私は、憧れに正直でありたいと思う。
確かに女性らしくいることの強要やそうじゃ無い人への排除思考はあってはならない。
だけど、金髪の長い髪の毛に細い足、家事を完璧にこなす女の子が理想的であったって良いのでは無いだろうか。

今までの女性像を"悪"とする様な、風潮に嫌気がさしてしまう。
バリバリに働く女の子だって、かっこいい。
どんなものに憧れを抱いたって、良いじゃ無いか。

今までの女性像はこうだったけど、私は好きな様に生きます‼️
一見、良い意見に見えて、その発言の根本には、過去の統一された女性像の否定がある。
それに憧れを抱いている人も、いるし、それになったって、良いのだ。
過去や他人と比較して、理想を語るのを辞めてほしい。

物凄く言語化が難しい上に、突っ込みづらい話題で賛否両論ある、賛否両論あって良いものだよなぁとも思う。


「女の子って本当に楽しい」(CANMAKE TOKYO)は逸材すぎるな。

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