子どもへのアンテナがしんどい。
子育てで、一番しんどいのは何だろう。
やはり、乳児期の、自分の寝食排泄すらままならない、授乳、抱っこ、寝かしつけの、エンドレスな繰り返しだろうか。
夜泣きも、横綱級のしんどさだ。他の人の親身なアドバイスも、なぜだか全く我が子には役に立たない。朝早く起こそうが、昼間体力消費を試みようが、泣く。
ネットにも答えはない。出される答えは、ひたすら耐えて終わりを待つ、だ。
その後も、イヤイヤ期や、お友達問題、自らの仕事と育児との兼ね合いなど、子どもが手を離れる時まで、連綿としんどさは続く。
どれも、真剣に子どもに向き合えば向き合うほど、投げ出したくなるしんどさだ。
一番など、決められないし、決める意味もない。
だが、もし誰かが代わってくれたら、本当に気が楽になると思うのは、子どもに対してアンテナを向け続けることじゃないだろうか。
新生児育児の身体的、体力的なしんどさに輪をかけているのは、傍らにいる、生まれたての人間が、自分が24時間気にかけていなければ、死んでしまうかもしれないという恐怖感だ。
授乳の量も、離乳食の食べ具合も、身体や脳の成長への影響が気になるがゆえだ。
自分以上に気にかけなければいけない存在がいるということ。それは本当に疲れる。
顔が赤らんでいたり、ちょっとした変化が、体調を崩す前ぶれだったりするので、気が抜けない。体調を崩せば、子どもがかわいそうなことに加え、その看病による負荷は、最悪の場合自分の体調を崩すところまで及び、それは回復した子どもの世話も、家事もままならず、それまでなんとか回してきた家庭の秩序崩壊につながる。
寝ている時も、かすかな泣き声、鼻水を啜る音にも目を覚まし、布団は掛かっているかを確認する。私の朝まで熟睡はいつ訪れるのか。
元気なら元気で、ほんの少し目を離した隙に、転び、落下し、事故に遭う。
避けようがなかったとしても、なんとか防げたのではないかと悔やまれる。
病気や怪我だけでなく、子どもの心の状態にも気を配り、ついでに「健康的な生活リズム」や、トイレトレーニング、箸の持ち方などの「歳相応の到達目標」も加わって、一日中、わが子の生活と成長具合に目をかけ、気にかけ、口を出す。
出し過ぎてもよくないと言われるから、もうどうしていいかわからない。
この子どもに向けるアンテナを、誰かが「愛情と責任を持って」、自分と同程度に請け負ってくれたなら、どんなに気が楽だろう。
身体を休めたいのと同じくらい、張り詰めた精神を休めたいのだ。
おそらく、私が、育児休暇も取り、家事や育児もよく手伝ってくれる夫に、求め続けてきたのはそれなんだと思う。
子育てが始まって10年が過ぎ、当初望んだ、夫に自ら察してもらうことは早々に諦め、遠慮なくやってほしいことを伝えてきた。
泣いたり怒ったり、延々と訴えつづけ、夫は争うよりは妥協を選ぶタイプだったこともあり、私はこの10年で随分助けてもらえるようになった。
それなのに、思ったより気持ちが楽になっていかないのが不思議だった。
もちろん夫も、子どものことは気にかけてくれるし、真剣に考えてくれる。
それでも、子どもが夜中高熱を出していても、熟睡する。
ひとたび父親から自分自身へとモードが変われば、子どもの小さな変化には気付かない。その切り替えのうまさを、自分の時間を手にしてもモードを切り替えられない自分と比べて、嫉妬しているのかもしれない。
自分でも、アンテナを適度に調整する器用さを身に付けることも必要だとは思う。
だが、やはり親の役目は、具体的な子どもの世話をこなすことだけでなく、子どもの状態や心に気を配り、気持ちを添わして、自分ごととして共感すること、それに対応していくことではないだろうか。
だとすれば、そんな役目を一手に引き受けるのは、ひとりでは荷が重過ぎる。
育児を協働でするというならば、その役目を共に担ってくれることで、片方に偏っていた肩の荷は軽くなるのではないかと思うのだが、10年かけて、その間何度そのしんどい気持ちを伝えても、そこは難しいようだ。
そして、家事も育児も、たくさん手伝っているという自負が、もう充分でしょと、そのアンテナを引き受ける余地をなくしているのだろう。
多くを望むのは、贅沢なことかもしれないけれど、それでも一番わかってほしい、一番共有してほしいことは、常に子どもへ向けているアンテナなのだ。
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