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アプローチの角度が見えているか

Hob1:82の第1楽章は3/4vivace assaiになっている。この冒頭8小節はvivace 特有の2つの小節を分母とする大きな三拍子で形を成している。

①1 2 ②3 4 ③5 6 |①7 8…

この形で語れるようにする。そのためには「四分音符の三拍子」のカウントをしないようにすることが大事だ。

Vivaceの跳躍的なリズム感を想像すると縦方向の動きをイメージしがちだが、この曲に関して言えば、進入角度は小さく鋭く、横方向への発展性の高さが問題になる。

この角度のイメージは演奏にとても大事なものだ。

例えば、K.550の第4楽章 2/2allegro assaiはその冒頭のアウフタクトを引き出すために進入角度は大きく、ほぼ縦方向になる。これはこの音楽が小節を4つの分母にした音楽であることも関係する。

指揮は音楽が鳴る前にどう動くのかに関わる動作である。その指揮がどう動くのかによって演奏結果は変わる。つまり、指揮者は演奏が始まる前にその音楽がどうなるのかを見ている立場にある。全体像が見えているからアプローチの仕方が見えている。

それは単に「記憶」として「知っている」のとは決定的に違うのだ。「記憶」に支配されている間は現実的な音響に振り回されてしまう。おそらくコントロールできない。現実に対応するやり方では指揮はできないのだ。

指揮は結果を引き出すためにある。最初からその結果になるように動くもの。その場の空気に対して支配的な立場にいなくてはならない。振り出す瞬間には全ては決してしまっている。その決意が定まっていなくては指揮はできない。

この発想は日本語と例えばドイツ語や英語との違いにも関わる。

日本語は空気を読みながらその方向性を変える語り方がある。つまり、「述語」はいろいろ語った後に来る。それはSV型の文型による言葉の発想とは違う。SV型は話しを切り出す瞬間に全てを決していなくては語れない。空気を読みながら結論を変える日本語とは違う。

指揮もそれと同じ仕組みにあると常に思う。

だから、その作品にどういう角度でアプローチしていくのかについては考えられていなくてはならない。というか、そういう「決する」判断をした上で動く習慣がなくてはならない。

単に楽譜が読めている、というだけではなく、そのフレーズを成り立たせている骨格自体を見抜いている必要があるのだ。※自分にとってはそのひとつの指針が「アプローチの角度」であると思っているのだが。

そして、そのヒントのひとつが「allegro」であるのか「vivace 」であるのかでもある。これらの用語は決して単なるテンポの速さを示す雰囲気のものではないと思っている。ハイドンやモーツァルトの作品に馴染むとそれらが小節の使い方に関係しているのがみえてくる。そして、そのような見え方がなくてはこれらの用語に意味がないとさえ思っている。K.551の冒頭がなぜallegroではなく、allegro vivace なのかも当然の問題であるのだ。これらの問題について仮説を持てないと持てている今では楽譜の見え方はまるで違うのだ。多くの作品の楽譜にあたる必要はそこにある。「雰囲気」や「速度制限」にしか見えないようでは情報不足でしかないだろう。

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