それでは音楽は見えない
37小節目からの金打管楽器による第1主題のフレーズは木管楽器のレガートを踏み越えて武骨にそのテーマを謳歌する。
ここで問題になるのは木管楽器のレガートを護るために金管や打楽器を抑えるのか?の問題ではない。このスラーのない対比的な金管楽器、打楽器をどう歌わせるのかの問題だ。
つまり、並べ方の問題だ。
この曲を三角3拍子で執ることに無理があるのは、例えばこの部分なのだ。四分音符目線で音楽を組み立てようとすると、このバラバラな音符たちを束ねられるのは、とてもミクロ的な段取りが必要になる。3拍めの四分音符を強くとか弱くとか、人為的な調整が必要になる。つまり、綿密リハーサルと言う名の「段取り」が必要になる。
これはとても音楽的ではない。
なぜ、そうなってしまうのか?それは四分音符目線では「音楽が見えない」からだ。打ち込みの後の修正が必要になるのと同じだ。そんな音並べ選手権大会に陥ってしまうと、それは統合的な規律で全員を従わせるような権力が必要になってしまうのだ。「乗り」がわからない演奏ほど辛いものはないのだ。
この第1主題は2つの小節を分母とする音楽である。冒頭はこの分母による6拍子でできている。そして、このトュッティによる部分は同じ分母による5拍子でできている。小節でカウントしていると、この骨格は見えてくる。つまり、どこが起点でどこにむかうのかが見えている。音の並べ方というミクロな視点を超えた自然な流れに乗ることができる。
クラシック音楽や学校教育的な演奏では「合わせる」という無茶振りをしがち。しかも、そこに精神論や根性論が入るから余計にめんどくさい。そういう軍事教練的なものがどこか残っているのだ。その「合わせさせる」をミクロ単位で短絡的に行うのは「手っ取り早い」からである。そして、そのやり方なら「おうち指揮者」でもできる。だが、そういう微分な視野がますます音楽を奪ってしまうのに気が付かないのだ。ひどくなると専制的になってしまう。「俺に合わせろ」という学校吹奏楽にありがちなセンセイが蔓延するのは、やはり、この界隈(世間一般を含めて)が「ミクロ」視点だからなのだろう。音楽を見ているのではないのだ。
同じようなことは、例えばK.425やHob1;98、ベートーヴェンop36 の冒頭などでも言えるだろう。
問題は組み立て方ではないのだ。流れを作ること、流れに乗ること。その積分的な捉え方にシフトしなければならない。