「繊細な変化」に気づこうとする目
僕の小学生時代の国語の教科書に「線香花火」の微細さについての書かれた説明文の教材があった。子供には地味でしかない線香花火が実はとても変化に富んだものであったことに目が開かれるものだった。こういうのを教材として選べた当時の教育関係者に感謝しかない。
さて、たしか、L.,モーツァルトの教本の中で、同じ曲だが、スラーを加えたり、その位置をずらしたりするような、そのアーティキュレーションの変更をも「ヴァリエーション」と呼んていた。変奏というイメージから考えると、そのヴァリエーションはとてもシンプルに思える。だが、逆に、後期ロマン派を通り越した現代人は、そういう細かなニュアンスに無頓着過ぎるのかもしれない。
例えば、「時計」の第2楽章の変奏の中で、2/4の小節を占める8つの16分音符に対するスラーの置き方を2つの小節の間で変化させるという箇所がある。これを明確な対比と捉えると、鋭角的に、マルカートさせることと、柔らかくレガートすることとの差異として対称させることになる。この「対比」を積極的に共感できる演奏をすると、俄然面白くなる。
そこに作者の意図があるかどうかは知らない。だが、楽譜にそう書いてあるとすれば、それは明確な対比だと判断するのが自分のやり方でもある。
例えばエロイカの第1主題だ。3小節めで提示されるときはスラーで括られていてレガートであることがわかる。だが39小節目でtuttiでこのフレーズが扱われるとき、主題を歌う楽器たちにスラーはついていない。これを「当たり前」として流してしまうのか、明確な「対比」として積極的に捉えるかどうかでは面白みは変わってくるだろう。
現場的には、むしろ、この剥き出しの金管楽器群にどのようにノンレガートで歌ってもらうのか?の方がよほど大事な問題なのだ。そこに音の並べ方のセンスの問題が関わってくる。
三角3拍子で演奏していると、単なる武骨さで終わってしまう。音楽的に、この箇所を、2つの小節を分母とする4拍子として捉えていなければ、このノンレガートは難しい問題になってしまう。演奏をしていると「微分」的な視野になってしまう。だが、そのミクロ目線ではこのノンレガートは問題を難しくするだけだ。積分の視野になってみなければ「音楽」は見えてこない。
D944の冒頭のホルンをレガートで演奏する例が最近多いように思う。たしかに、楽譜の通りに吹くのは朴訥過ぎると感じるからかもしれない。だが、その朴訥さがあったからこそ、17小節めからのレガートが美しいのではないか?と僕は解している。少なくとも楽譜にはそう書いてある。
楽譜のアーティキュレーションと自分の感じているものが違う、ということは少なくない。でも、そういうブツカリがあったときこそ、楽譜を通して、改めて作品を知るチャンスになる、と思うのだ。
アーティキュレーションのほんの少しの変化も、18世紀の人たちは「ヴァリエーション」と受け止めていた。その繊細な受け止め方は、楽譜を解する時の自分の武器として取り入れたい。