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「びっくり」を効果的にするためには空間把握が必要〜ハイドン交響曲第94番第2楽章

ブラームスop90の第3楽章を演奏するのにあたり、その小節の中を三角を切って鳴らしていくようなやり方ではその流れは沈滞する。音響に押し流されてコントロールを失ってしまう。だが、この曲の和声の美しさ故に、それがこの曲の魅力であるようになってしまう。あるいは、その音響を鳴らすことが演奏になってしまう。

楽譜を見るとpoco allegretto と記されている。しかも3/4ではなく、3/8の音楽であるという事実に直面する。この演奏のイメージと楽譜の事実の乖離を直視できないのが、よくあるこの曲の演奏のパターンであろう。

運動には起点があって、その帰着点がある。その始めと終わりかあるから、法則性を捉えることができる。それは音楽も同じだと考えている。
音楽が音の単なる連続でしかないという捉え方では、私たちはそれをコントロールできない。拍を叩いて、数えて並べる演奏になってしまうのはそのためだ。それはある種、「合わせている」状態なのだ。

音楽をコントロールができるのはどこから始まって、どこに向かうのか、それを把握できているからだ。

この3/8poco allegretto は、アウフタクトから始まる。そのアウフタクトは何をきっかけに起こるのか?と考えるかという発想は、そのアウフタクトを直接動かそうとするのとは全く違う。おそらく後者の姿勢の方がよくあるものだろう。つまり、0小節の中を「いち、にぃ」と数えて、その最初の付点音符を引き出し、さらに16分音符をどう鳴らすかを見てしまう。そうやって「合わせる」演奏になってしまう。

前者のやり方は0小節め自体を根こそぎ動かそうとする。というよりも、このメロディ全体の骨格を把握して、フレーズを演奏する。この視点に立っていると、このメロディが、0小節を起点とする4つの小節を分母とする大きな三拍子として呼吸していることになる。

①0 1 2 3 |②4 5 6 7 |③8 9 10 11 |①12…

そして、この「大きな3拍子」で出来ているのは往きのフレーズでしかないことも見えている。次の「大きな3拍子」がその復路として返ってくる。そして、その往復の後、中間のフレーズが「大きな4拍子」で挿入され、最後に締めのフレーズとしてメロディが「大きな三拍子」で歌われる。

この大きな骨格として運動が見えている時、演奏は音楽をコントロールしている状態になれる。

さて、Hob1:94の第2楽章の有名な「びっくり」が効果的に演奏できるかどうかの問題も、このような把握に関係している。

この「びっくり」があまり効果的に鳴らせないのは、その16小節めだけの問題としてしか見ていないからなのだ。この16小節めの位置が見えているかどうかなのだ。

もちろん、指揮動作的にここは大きな振りをするだろう。だが、自分自身の経験として、16小節めだけの視野では、どんなに動いても空間的な余裕がない。かなり無理のあるものになる。それでもその衝撃を強くしようとすると、その空間的な余裕の必要からテンポを遅くすることになるだろう。だが、それではandante を逸脱する。その言い訳としてお馴染みの「ヨーロッパの貴婦人の歩き方」とか言うのだろうが、それは苦しい言い訳にしかならない。andante は軽いステップの音楽であることは否めない。

この16小節めの裏拍の位置の問題と先程の空間的な余裕の問題は実は関係がある。ただ前者の問題は「2点間の距離」でしか見えていないことにある。

この第2楽章の主題は8小節で出来ているわけではない。それはフレーズでしかない。この後の変奏での執拗な反復指定でも明らかなように、主題の全体像はかなり大きいのだ。

そもそもその8小節フレーズも、どこを起点としているか、どこにその帰着点があるのかの把握が間違えていては話しにならない。

先のブラームスのアウフタクトの話でもそうだが、その開始に直接触れる発想だから、「合わせる」演奏に陥ってしまう。音楽を直接的に動かそうとするのは、子供のミニカー遊びと同じだ。そのお遊びは、恣意的で、全体のバランスや道理を無視してその車だけを動かそうとする。それがいかに不自然かは想像できるだろう(そこに無心になるのが「可愛い」のだけどね)。
他の人たちと共有的にするためには、大人には道理や理屈がなくては成り立たない(それが「誰にもわかりやすい」かは別問題だ。難しくてわからないのが悪いと言う方が大人として哀れなのだ。そういう「酸っぱい葡萄」狐を相手にする必要はない)。

さてでは、この16小節めはどのような位置にあるのだろう。

このフレーズの起点は書かれていない0小節めにある。0小節を踏むことによってフレーズは立ち上がる。この最初の8小節フレーズは、それを起点に立ち上がる4つの小節を分母とする大きな4拍子の往復でできている。

①0 1 2 3 | ②4 5 6 7| 8…

つまり、16小節目までには、4つの小節を分母とする「大きな4拍子」という骨組みが組まれている。

①0 1 2 3 | ②4 5 6 7| ③8 9 10 11 | ④12 13 14 15 | ①16!

この「大きな四拍子」のサイクルが16小節を呼び起こす。指揮の図形的に捉えてみれば、その「四拍め」から16小節めへの距離感、落下のための高さはかなり長いものになる。2点間の距離の視野と比べると、それは壮大な大きさになる。

つまり、「びっくり」がその効果を発揮出来るかどうかは、演奏者が、その音楽の「空間把握」をできているかどうかの問題に関わっているのだ。

「当時のロンドンの聴衆は穏やかだったのでこの程度で驚いた」なんていう諦めは、自分たちの把握の失敗の言い訳に過ぎないのだ。

演奏が起伏を持ったものになるかどうかは、実はこのような空間把握の問題に関わっている。「クレシェンドやデクレシェンドが苦手」とか「ワルツの指揮が難しい」とかいう問題も実はその把握に関係がある。2点間の距離や、ましてや点の問題としか捉えていない状態では、作品の表情をコントロールすることはできないのだ。

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