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ホモ・デウス⑵〜人類の課題リスト❷〜

前回に続き「人類の課題リスト」です。

21世紀の人類の課題リストが「不死・幸福・神性」の獲得というのはハラリさんの仮説です。つまり、人類は「飢饉と疫病と暴力による死を減らすことに成功したので、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。また人々を絶望的な苦境から救い出せたので、今度ははっきり幸せにすることを目標とするだろう。そして、人類を残忍な生存競争の次元より上まで引き上げることができたので、今度は人間を神にアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウスに変えるだろう。」というもの。

そんな仮説に意味があるのか?と思う方もいらっしゃるでしょうが、それに対するハラリさんの歴史学者らしい回答に感銘を受けましたので紹介します。

私の予測は、人類が21世紀に何を達成しようと試みるかに的を絞っているのであり、何の達成に成功するかが焦点ではない。私たちの将来の経済や社会や政治は、死を克服する試みによって方向づけられるだろう。だからといって、2100年には当然、人類が不死になるということではない。そして、これが最も重要なのだが、この予測は、予言というよりも現在の選択肢を考察する方便という色合いが濃い。この考察によって私たちの選択肢が変わり、その結果、予測が外れたなら、考察した甲斐があったというものだ。予測を立てても、それで何一つ変えられないとしたら、どんな意味合いがあるというのか。

という訳で、今回はこれからの課題リストである「不死・幸福・神性」についてです。

不死

歴史を通して、宗教では「死」を不可欠で好ましいものと捉え、人生の意味はあの世でどのような運命を迎えるかで決まると断言していた。人間が死ぬのは神がそう定めたからであり、死の瞬間は、その人が生きてきた意味がどっと溢れ出してくる「神聖な霊的経験」であった。これに対して、現代の科学と文化は、「死」を完全に違う形で捉える。つまり「死」は、私たちが解決でき、また解決するべき「技術的な問題」と捉える。そして「技術的な問題」には「技術的な解決策」がある。つまり、「死」を克服するのにキリストの再来を待つ必要はなく、尋常ではない頭脳を持つ人が二、三人いれば、研究室で技術的に解決可能なのだ。そして、科学界の主流と資本主義経済は、このようなスタンスと相性が良い。多くの科学者と投資家は、新しい発見をしたり、より多くの利益をあげたりする機会を与えてくれるものであるかぎり、自分が何に取り組んでいるかは気にしない。「死」を打ち負かすこと以上に胸躍る課題、あるいは、永遠の若さを提供する市場よりも将来性のある市場を想像できる人がいるだろうか? 

「死」というものを「神聖」なものとして捉えるのは現代でもポピュラーですが、それを単なる「技術的な問題」として捉えるというのは少し冷酷な感じがしますね。でもこういったところがハラリさんらしくて好きです。そしてそれを科学者、資本主義経済の本質と絡めて説得力を高めている点も良いですね。

話を戻すと、永遠に生きられたとしても永遠に悲惨な状態で生きるのでは意味がないよねってことで、歴史を通して、無数の思想家や預言者や一般人が、生命そのものよりも、むしろ「幸福」を至高の善としてきたといういう流れで、人類は「幸福」をさらに求めることになるといことです。

幸福

現代人が昔の先祖達よりもはるかに満足しているかどうかは、明白とは言えない。伝統的な社会と比べて先進諸国のほうが繁栄していて、快適で、安全であるにもかかわらず、自殺率がずっと高いというのは不穏な兆候である。どうやら私たちの幸福感は謎めいた「ガラスの天井」にぶち当たり、前例のない成果を挙げようとも、増すことができないようである。
「ガラスの天井」は二つの柱によって支えられている。それは「心理的な柱」と「生化学的な柱」である。「心理的な柱」は客観的な境遇よりもむしろ期待にかかっている。つまり現実が自分の期待にそうものである時に満足する。しかし境遇の劇的な向上は、さらなる期待を生み際限がなく決して満足することはない。ならば「生化学的な柱」はどうか。これは身体的に快感を経験していて不快感がないときに満足するということであり、この柱は、無数の世代を経ながら、幸福ではなく生存と繁殖の機会を増やすように適応してきた。生化学系は生存と繁殖を促す行動には快感で報いる。だがその快感は束の間しか続かない。もし科学が正しく、私たちの幸福は自分の生化学系によって決まるとしたら、世界中の幸福レベルを上げるためには人間の生化学的作用を操作する必要がある。
したがって、幸福を獲得するという課題解決のためには、生化学的に永続した快楽を楽しむことができるようにホモ・サピエンスを作り直すことが必須のように見える。

飢饉と疫病と戦争が消えて亡くなり、人類が前例のない平和と繁栄を経験し、平均寿命が劇的に伸びたなら、人間は簡単に幸せになれるのではないか?残念ながらそうではないというのがハラリさんの見解のようですね。

つまり、幸福を手に入れるのは至難の業であると。

「心理的な柱」はみなさん実感があると思います。これを無くすには仏教で言うところの涅槃の域に到達する必要がありそうですが、煩悩の塊である私には無理ですね。そうすると「生化学的な柱」の方で改善するしかないですが、これも経済力が微妙な私には難しく、せいぜいジムで筋トレとジョギングに勤しんでドーパミンとセロトニンを、飼い犬と戯れてオキシトシを分泌して幸福感に浸るしかなさそうです。

もうお気づきだと思いますが、不死と幸福を獲得するためには、結局、人類は自ら神性を獲得する、つまりホモ・デウスにアップグレードすることが必要だというのがハラリさんの主張です。

神性

人間は、不死と幸福を追い求めることで、実は自らを神にアップグレードしようとしている。不死と幸福が神の特性だからであるばかりではなく、人間は老化と悲惨な状態を克服するために、まず自らの生化学的な基盤を神のように制御できるようになる必要があるからである。この手段は「生物工学」「サイボーグ工学」「非有機的な生き物を生み出す工学」の3つである。多くの人々は宗教的観念や倫理的観念により、これら3つによるアップグレードに誰かがブレーキをかけるように期待するが、2つの理由からそれは無駄である。第一にブレーキがどこにあるか誰も知らない(AIやナノテクノロジー、遺伝学など一つの分野に精通している専門家はいるが、すべての分野を熟知している専門家はいない。このため、全体像を見れる人などいない)。第二に仮に偶然ブレーキを見つけたとして、ブレーキを踏んだ場合、経済が崩壊し、社会も運命を共にすることになる。現在の経済は絶え間なく無限に成長し続ける必要があるが、もし成長が止まるようなことがあれば、経済は居心地の良い平衡状態に落ち着いたりはせず、粉々に砕けてしまう。だからこそ資本主義経済は不死と幸福と神性を追求するのである。

そうは言っても、政治や自主規制団体がブレーキをかけるのではないか?と思う方もいっらしゃると思いますが、ハラリさんによると、どんなアップグレードもまずは治療として正当化されるということです。そして私たちは、いったん重要な大躍進を遂げたら、新しいテクノロジーの利用を治療目的に制限して、アップグレードへの応用を完全に禁止することは不可能である。

世界は過去300年間にわたって人間至上主義(ヒューマニズム)に支配されてきた。人類による「不死・幸福・神性」の獲得という試みは、この人間至上主義の積年の理想を突き詰めていった場合の論理上必然の結論にすぎない、というのがハラリさんのキーメッセージです。

前回と今回とで「人類の課題リスト」を整理しました。次回から人類至上主義に着目します。これについてハラリさんは3つの問いを投げかけています。

・人間と他のあらゆる動物の違いは何か?
・私たちの種はどのようにして世界を征服したのか?
・ホモ・サピエンスは並外れた生命体なのか、それとも、ただの井の中の暴れ坊にすぎないのか?

私はこれ以降の展開が大好きで、これによって読書にハマったと言っても過言ではありません。うまく整理できるかわかりませんが、お読み頂いた皆様にも面白さが伝わるよう努力します。

今回も最後までお読み頂きありがとうございました!

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