Mizutani Katsunori

はじめまして水谷勝範と申します。日本にモデリストという言葉は馴染みがないかもしれません…

Mizutani Katsunori

はじめまして水谷勝範と申します。日本にモデリストという言葉は馴染みがないかもしれませんが、ファッション界を目指す若者に希望が届くといいなぁと思います。若くないですが🤭お付き合いいただければ光栄です。https://www.fashioncreator.net

マガジン

  • 私の生き方

    出会いがあるから前を向く・・・歩んできた道に後悔はありませんが、最後は自分らしく生きたいと考えるようになりました。仕事はデジタルを活用する服創りに挑んでおりますが、私は「モッタイナイ」精神で質素に生きることに幸せを感じます。ファッションビジネスには向いていない気もしますが、長く愛用していただけるモノ創りを目指します。お付き合いいただければ光栄です。水谷勝範

  • ファッションモデリスト/ Fashion Modéliste

    『誰もが人生を愉しむことができる』私たちが大切にしているメッセージです。 私たちはモデリストの育成を目的に、コレクション制作に取り組んでおります。次代のモノ創りは1枚生産が必要と考えており、私たちの取り組みが、皆さまの新たな創造につながりますことを願っております。どうぞよろしくお願いいたします。

最近の記事

人間の心は、真っ直ぐにはいかない、それでも私は 前を向く

noteを通じ、皆さまに出会え 心から 感謝しております 今月の投稿より半年ほど noteをお休みさせて頂きます 理由は プロジェクトのスタート たった、それだけですが 全力疾走が、したいだけです 2021年 ミャンマークーデターにより 欧州企業は、撤退しました 私も日本へ戻り、 この noteの存在を知りました いま思えば、この noteのおかげで 自分の人生を振り返ることができました 正直、何か伝えたいと言うより 私は 何を目指し、生きてたんだろう それを 振

    • 闘う君を闘わない奴等は笑う、人生は誠実な努力が大切です

      あたし中卒やから・・・ 仕事もらえへんのやと書いた 女の子の手紙の文字は とがりながら震えている・・ 高校生の女の子が 路上ライブで 「ファイト」を唄っていた・・・ 30年前の曲を・・・ いまの高校生が 熱唱する しんみり 聴き入ってしまい 若い頃のコンサートを思い出した 一人、中島みゆきさんのコンサートへ アンコールで「ファイト」を唄われ まだ 公開前の楽曲だった 記憶がある 私の隣の席は、見知らぬ方でしたが その彼女は、最後まで下を向いていた 私は 声をかけ

      • 自然の恵みは尊いモノ、君の心はどこにある

        みんな 生きてるか 食べるモノは あるか 寝る場所は あるか 「私たち、みんな生きてるよ」 しかし、その声は 震えていた・・・ 何となく、ネットもすべて 傍受されている 気がする 「リスクを負うことは 避けよう」 お互いの合言葉で、通じ合えた・・・ 「私たちは生き抜くから大丈夫だよ」 それが 最後の通信となりました 2015年から ミャンマーに入り 私が 驚いたことは・・・ 自然の恵みが、とっても豊かなこと リンゴは、昭和の味ですが 何とも言えない 素朴な甘さ

        • 『ファッションが好きな二十歳の君へ』 愛で地球は救える

          あきらめるな・・・ あなた達なら 生きぬける 私が ミャンマーの若者へ 伝え続けているメッセージです 2021年2月1日 ミャンマー 軍事クーデター あの日から 笑顔は 消えた・・・ 若い頃、恩師には 戦争の無価値を 教えられ いまミャンマーの若者に 人間の傲慢さを 涙で 伝わる 森で食材を取り、命をつなぐ 愛する 仲間たちは ・・・ 「兄ヤン、私たちは 生きてるよ」 ・・・と言うが 銃撃、強奪、伝染病・・・ 簡単に生きれる 状況でないことは 私でも、わかる

        人間の心は、真っ直ぐにはいかない、それでも私は 前を向く

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        • 私の生き方
          18本
        • ファッションモデリスト/ Fashion Modéliste
          20本

        記事

          『ファッションが好きな二十歳の君へ』 君にも夢はあるだろう

          君にも 夢はあるだろう ミャンマーの若者に・・・ 語りかけたことがあります 彼女らの返事は・・・ そんなこと「考えたことがない」 あの日から・・・ この問いかけに 封印しました 私が、ミャンマーへ入る 決断をしたのは・・・ フィギュアスケートの世界を知り 幼少から 挑み続けた 彼女たちに 直向きに挑む姿を 魅せられたから 私に 残された時間・・・ 私だから、できることがある そんな想いから、欧州のモノ作りと ミャンマーが 結びつきました 私が、腹を括っていたのは

          『ファッションが好きな二十歳の君へ』 君にも夢はあるだろう

          『ファッションが好きな二十歳の君へ』服作りで生きる道を伝えたい

          ミャンマーで過ごした時間 まるで 夢のような気がします 深い森に囲まれ・・・ 植物や動物と共存する世界 私を待っていたのは・・・ 真っ白な歯をみせる笑顔でした あの笑顔があったから 私は、今も夢を抱き続けれる いまの 日本人に あの謙虚な笑顔は 真似できない 2021年2月1日・・・ あの日から 笑顔は消えたが 彼女たちは・・・ 自分の人生を信じ 生きています クーデターは 革命と言いますが 私は、首を横に振り続けます 『ファッションが好きな二十歳の君へ』

          『ファッションが好きな二十歳の君へ』服作りで生きる道を伝えたい

          新社会人の君へ、夢の道はつながる

          10代、夢を何度も描いた いつも 上手くいかず やっぱり、夢かと思う・・・ 何年 経っても 諦めらめてない 自分がいる 再び、夢に 挑むが ふと・・・ 私は、何がしたいんだろう 夢の価値すら問うようになる 今更だけど・・・ 心が動いた 原点を思い出す 10代で 観たパリコレクション 美しすぎる、夢の世界だった あんな 生き方がしたい 単純に、それだけだったが あの日から46年・・・ 挫折した道は、つながっていた 私が、新社会人の若者へ 偉そうに言えることは 何も

          新社会人の君へ、夢の道はつながる

          サスティナブルファッション 私の生き方

          マザー・テレサ、 この名前に 何度も救われた ・・・ 記憶がある その子供たちは ストリートチルドレンと呼ばれ 彼らに出会ったことで 私の人生も、変わったと思う 子供たちと一緒に 道端で 寝た記憶は 今も忘れない 苦しい時、私が 諦めないのは 子供たちの生き様を知ってるから 貧困でも 笑顔が 絶えない 人間として 正しい行動をする 正直、犯罪をしないことに 驚いた これが マザー・テレサの ・・・ 教えと思えた あれから、40年 あの子供たちは・・・ 私と同じ生

          サスティナブルファッション 私の生き方

          私のペルソナはフランス人 / Fashion Creator vol.42

          私の分身のような ペルソナ モデル 彼女の生き方を伝えたくて 私は、服のデザインします。 モデリストを志す若者へ 私が 最初に伝えていることは あなた自身が 理想とする パルソナモデルを描いてみは どうですか・・・。 あなたの想像を膨らませて 生い立ちから人生観まで描きます。 すると・・・ まるで、命が宿ったように モデルが 鮮明に見えてきます。 私は ペルソナを描くことで コンセプトのブレない 服作りができています。 今回は、私の育んでいる ペルソナモデルをご

          私のペルソナはフランス人 / Fashion Creator vol.42

          ファッションは 着飾ることでなく生き方 / Fashion Creator vol.41

          自分の人生をどう生きるべきか その問いに 向き合う若者がいます。 正直、驚いていますが 素晴らしいです。 私の若い頃は、考えもしませんでした。 いま若者が、生き方に向き合うことは 素晴らしいエネルギーがある証拠です。 若者が 自分らしく生きること 私は、最後まで応援します。 ただ ビジネスとなりますと 純粋な若者ほど・・・ 矛盾した苦しみを感じるでしょう。 私も 取引先からの要望に 今考えれば、あり得ない条件でしたが 若さゆえ、すべて 受け入れてきました。 今でも

          ファッションは 着飾ることでなく生き方 / Fashion Creator vol.41

          わたしは、この道をあゆみます

          信じる道は、つながる・・・ 恩師は口癖のように言っていましたが 私はいまでも、それを信じています。 あれから45年・・・ 私は、同じ道を歩いています。 どうみても 凸凹 道ですが、 これが 私の道と、言い切れます。 なぜ、服作りにこだわっているのか 時々、自分に問いかけますが いつも、その答えは 単純で みんなと、生きることが 楽しいから それだけでいい、と思っていましたが ミャンマーの若者と接していると 私も命を大切に使い切りたいと・・・ 時折、お前は もっと頑

          わたしは、この道をあゆみます

          ファッションの好きな二十歳の君へ

          私は、どこかで道を間違えたのだろう・・・ ミャンマーの空をながめ、そんな気持ちになった。 海外での服作りに疑問はありましたが それはビジネスと、割り切っていました。 この路線を走り続ければ、何が起こるか 想像はできますが、この産業構造から ・・・ 離れる勇気はありませんでした。 しかし、何が 私を変えたのか・・・ ミャンマーの若者から受けた、たくさんの愛情 それ以外は、考えられません。 とっても、貧しい国ですが 彼女らは、人として輝いています。 人間は、何がいちば

          ファッションの好きな二十歳の君へ

          人種差別はしない、私の生き方

          1979年 south California, 小さな教会で・・・ 素敵な光景が 心に映りました。 1週間 作業着で 働き続けた人々・・・ 週末は、まさにファッションショーでした。 誇らしい表情の黒人の方々に出会い・・ 自分たちの生活の中に幸せは宿っている そんな気持ちになりましたが 今でも、それが原点のような気がします。 私が生まれたのは1960年、雪の1月 世話をかけ、産婆さんの手に落ちたという。 恩人の母は、人生最後まで ミシンを踏み続けた人でしたが 苦難な母の

          人種差別はしない、私の生き方

          地球から多くの恩恵を受けますが、私は何も返していない

          最近の異常気象から ふと、思うことがある ・・・ 私は、自然や野生の生き物が大好きで ・・・ いつも心を癒してくる そんな地球から、多くの恩恵を受けても 私は、何も 返していない ・・・ そんな気持ちが 湧き出てきます。 人には、いろんな考えがあり 優先するものは、違いますが・・・ 私は、自然を残したいと思っています。 理想と現実は違う・・・と言われますが 当の本人が、それを求めているだけです。 と言う私も失敗は、しょっちゅうですが それも慣れたもので、心の回復

          地球から多くの恩恵を受けますが、私は何も返していない

          私がチャイナドレスを創り続けたわけ

          はじめての中国訪問は 26歳・・・ 政府の派遣員としてチャンスをいただきました。 商社、小売、アパレル企業から6名にて上海へ 衣料製造業の現状分析という任務でしたが 商社の方が団長となり、盛り上げて下さいました。 私が一番若く、鞄持ちの存在でしたが 毎夜、皆様の武勇伝を聴かせていただきました。 この出会いが、私の人生を変える起点となり 5年後、上海に生産拠点をつくることができました。 当時はまだ、縫製業の中国進出はなく 技術の流出に繋がると脅されましたが・・・ 私の

          私がチャイナドレスを創り続けたわけ

          マイノリティデザインと私の生き方

          私にとって、マイノリティとは これから更に少数派となる 縫製業と向き合うことかもしれません。 私は服作りという、好きな道を歩んできましたが 量産からクチュールまで経験することができました。 ただ、天国から地獄まで 歩んできた気分です。 私の天国とは、納得できる服が仕上がり お客さまと笑顔を共有できた時 地獄とは、バーゲン品の企画ですからと 安く早く仕上がる設計を依頼される・・・ 工場に入荷する資材は、不良品の材料ばかり B品を活用する意義から対応しますが 私が 許せな

          マイノリティデザインと私の生き方