食べると会社を辞めちゃうカレー
「彼が作るカレーを食べた人は、もれなく会社を辞めちゃうんだよね」とチーフが言って、ドッと笑い声が起きた。
言われた本人、Mさんは憮然として「偶然っすよ、でも食べた人は皆んな美味しいって称賛してくれてますよ」と納得いかない顔で答えた。
転職した職場で、私への歓迎会が開かれ、社員ひとりづつ自己紹介していたときだった。和やかで、社員同士の仲が良好なのが感じられる。自己紹介するたびに、誰かがツッコんで合いの手を入れていた。
同じチームの先輩社員、Mさんが「趣味は料理です。得意料理はカレーです」と言った途端、チーフがまぜっかえして笑いが起きたのだった。彼の定番ネタらしい。
「美味しい、絶品だって食べた人は言うけど、会社辞めたくないからね。定年間近になったら食べに行くよ」「チーフには絶対つくりませんよ」
目の前で繰り広げられる、先輩方ふたりのそんな応酬に信頼感が感じられる。良い職場に転職できて良かったと、私は感じいって聞いていた。
Mさんと仕事帰りに一緒になったとき、趣味の料理のことを聞いてみた。
「俺が作る料理は特別なものじゃない、普通の家庭料理だよ。でもさ、料理って段取りが全てだろ。計画通りに遂行できるし、美味しいものが着実にできるところが癒されるよね。いつも仕事でアクシデントやハプニングに悩まされてるからかな」と笑いながら話してくれた。
「あのーーー食べると会社を辞めてしまうっていうのは…」
「ネタだよ、ネタ。食べに来てくれた奴らは皆んな、会社と方針が合わなくなったり、家族が病気になって郷里に戻らなくちゃならなくなったりして辞めただけで、偶然だよ。ヒトのカレーを呪いのように言うなんて、チーフもヒドイよな」
そうは言いつつも、面倒見の良いMさんは信頼されていて、新入社員の私もずいぶん助けてもらった。
この人とは話が合うなと思ってから、つきあうようになるまで時間はかからなかった。
初めてMさんの部屋に招かれて、カレーをご馳走になったとき「これで私も会社辞めちゃうのかな〜」と考えなくはなかった。
結婚すると決めた時には、退社しなくてはならないことがわかっていたので、図らずもそのとおりになったな〜と何故か感心した。
「結婚するので辞めます」と同僚達に伝えると「カレー食べたのね」と何人かに言われて可笑しかった。これはもう、都市伝説の域に達している。
結婚して入居したマンションは、花火がよく見えるという触れ込みだったので、仲の良かった同僚や先輩を、新居お披露目と称してお招きした。
一人暮らしを始めてから10年以上、小さなコンロで料理していたMさん、つまり私の夫は、真新しいシステムキッチンに感激して沢山料理を作ってくれた。
花火大会の日も張り切って、得意料理「カレー」を作ると言う。
「いいのかな〜会社なくなったりしない?」冗談混じりでいう。
「いや、これでなんともなければ汚名返上になるだろ。不名誉な噂を一掃するチャンスだ」と夫はカレーに入れる大量の玉ねぎを刻み、スパイスを調合して煮込み、カレーを作った。会心の出来だった。
来てくれた皆んなは「会社辞めたくはないなぁ」と笑いながらも「美味しい!」「おかわりして良い?」とぐいぐい食べた。寸胴鍋いっぱいに作ったカレーは綺麗になくなり、夫は満足そうだった。
花火はベランダの真正面から見え、とても綺麗だった。
「明日から会社かぁ、行きたくないな」誰かがふと言った。私以外は皆、会社勤めで、月曜から出勤しなければならなかったのだ。
「でも、カレーの威力で会社なくなるかもな」とチーフが言って、みんなで笑った。
その半年後、会社で大規模な人事異動があり、部署がまるごと一つなくなってしまった。
夫はそれまでと同じ部署のままだったが、あの花火大会の日にカレーを食べた仲間のほとんどが会社を辞め、転職した。後になってから個人的に事情を聞くと、皆、様々に事情は違いながらも、この会社にもういられないという思いは共通していた。
「カレーは関係ないけれど」と言いながら「会社、辞められて良かった」と何人かは伝えてくれたことが救いだったかもしれない。
振り返ってみると、夫がカレーを振る舞うほど親しくなった同僚や友人、クライアントのほとんどが、その後、会社を辞めている。その打率は結構高く、噂はまんざら嘘ではないことに、妙な話だが感心した。
転職の時期とカレーを食べた時期が重なっただけなのだが、今回は人数が多かったので、夫にはショックな出来事だったようだ。その後、仕事関係の親しい人は家に連れてこなくなった。
夫の作るカレーは、休日に家族に振る舞う料理になった。
平日の炊事を担当している私は、楽をしようとカレーを作ると「カレー食べたい欲を貯めて休日に一気に作ろうとしてたのに…」となじられるので、滅多に作らない。
子供達が生まれてからは甘口と辛口2種類作ってくれるようになり、キーマカレーにしたり、オムライスにしたりと、夫のカレーバラエティは広がった。いつ食べても美味しくて嬉しい。気になるのは、私の仕事が不安定なこと、くらいか。
就職してもなぜか長続きせず、結局は在宅で仕事をすることになる。フリーランスの仕事は不安定だしきついから、どこかに所属する方が楽だと思い、断続的に就職活動をしていたが、カレーのせいにしたくなるような理不尽なことが多々あった。
そして、気づくと四半世紀経っていた。
大学生の息子は、来年は就職活動する年頃だ。就職する気があるか聞いてみた。
「会社ってなんかなーーーつまんなさそう。でもお母さんみたいにフリーはキツそうだよなーーー」
安定をとるか自由をとるか。いつの時代も悩みは変わらない。
ふと思い立って、カレーの話をしてみた。
「知り合った頃、お父さんの作るカレーは『食べると会社を辞めちゃうカレー』って言われてたんだよね」
すると、子どもたちは「まじで!俺ら生まれたときから食べてるじゃん!」とイキリたった。
「ふっふっふ、あんた達は生まれながらにしてカレーを仕込まれているから、企業には属せないはずよ」
「またまた〜」
鼻で笑って息子はバイトに出かけてゆく。大手塾講師のバイトは時給も良いし、人間関係もドライで居心地良いらしい。息子はどこに行ってもそれなりにこなせるだろう。カレーの呪いなど、どこにも感じさせない。
「まぁ、私は就職なんて全然先のことだけど…仕事したくはないなぁ」
娘はまだ中学生、小心者だけど自由人気質なので、余計なこと話したかなと心配になる。でも、お父さんの作るカレーは大好きだ。
肝心の夫は、相変わらず自分でカレーを作って食べつつも、会社を辞めることなくコツコツと仕事をしてきた。その間に「辞めたい」とため息をつかれることも何回かあった。寝言で「こんな会社辞めてやる!」と絶叫した夜もあった。
だけど、もう少しで定年を迎える。
「ねぇ、定年になったらさーーー俺、カレー屋やろうかと思うんだけど、どうかな。結構美味しいと自負してんだけど、評判になりそうじゃないか?」
「あなたが作るカレーは美味しいけど、何かプラスアルファがないと商売はねぇ。『食べると会社を辞めるカレー』って、うたったらどう? でも不吉な感じがするかなぁ」
「どうだろう、それ需要あるのか。不味そうに聞こえるんだけど」
夫は自分のカレー計画にまんざらでもないらしい。
会社辞めたい皆さん、カレー食べにきませんか。
その効力は人それぞれ、個人差ありますが、カレーの美味しさは25年間食べ続けた私が保証します。
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