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プレアビヒア領有権を巡る国際司法裁判所の判決

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プレアビヒアの領有権問題は、1954年のカンボジアのフランスからの正式な独立を機に幕を開ける。1959年にカンボジアが国際司法裁判所に提訴し、1962年6月15日に領有権はカンボジア側にあるとする判決結果が出されている。

当時のタイのサリット首相は、タイ国民に向けて、裁判には間違いなく勝利すると語っていたこともあり、判決を聞いてタイ国民は激怒。学生を中心に200を超えるデモが行われ、プレアビヒア寺院の囲い込み行動、周辺への地雷の設置、プレアビヒアに派遣されたカンボジア兵士への発砲などが繰り広げられた。

カンボジアの主張は、プレアビヒア寺院のある地域が1908年にパリで発行された地図においてカンボジア領となっていることを根拠としている。その地図によれば、以下のように境界線が引かれている。

実は、この地図における国境線が、タイ(シャム)と仏領インドシナとしてカンボジアの外交を監督していたフランスとの間で取り交わされた領土の割譲に関する条約(1904年、1907年)で定められた分水嶺による国境線と相違があったことが問題の発端となっている。

しかし当時、シャム政府は、地図の正確性について非難することはしなかった。なぜならば、当時のシャムは地図を作成する知識に乏しく、地図作成自体をフランスに依存していたためである。当時の伝統的な領土確定方法は、測量に基づく厳密な国境線の確定によって行われるのではなく、王朝間の朝貢関係で主従が決まるものだったからである。

条約の内容と地図上の国境線が遺跡の分だけ食い込んだのは、実際に線を引いたフランス高官が酒に酔っていてペンを誤ったからだなどと冗談交じりに説明されたそうだが、国境線上にある遺跡を我が物にしたかったフランスの思惑だろう。


人間的な感覚で言えばタイに分がありそうな経緯だが、判決はカンボジアの主張が通った。理由は、当時のタイ(シャム)政府が、1908年に上記地図を受領したにも関わらず、カンボジアが提訴するまで、過去に一度も反論することなく、かつタイ(シャム)国内においても同地図を長期間使用していたことを、同国境線を認めていた事実として認定されたからである。

タイ側は、カンボジアの提訴に対抗する為、仏領インドシナ時代にフランスとタイが締結した条約をカンボジアが継承する権利はないとし、国際司法裁判所が本紛争を正当に判決する能力についても異議を唱えた。常設国際司法裁判所の上部機関である国際連盟が1946年に消滅しており、戦後発足した国際連合の国際司法裁判所には当該裁判を行う管轄権はないと主張したのである。

その上で、カンボジアに提訴される1958年までタイが1907年の地図の不備を問題としなかった理由は、タイがプレアビヒア周辺地区を事実上所有し、タイの官吏が地方行政上の行為として管理を行っていたためで、問題提起する必要がなかったためと説明した。

実際に、国道211号線および寺院参道は現在のタイ側から伸びており、カンボジア側からは断崖絶壁しかなく、よじ登る以外に辿り着く道自体がなかった。

タイから見れば、歴史的にも18世紀半ばから約2世紀に渡って実効支配してきた場所であり、条約の主旨から勘案すれば「錯誤」に過ぎないので、実際に問題になった時に、話し合いで解決できるレベルの話であろうと考えていたのかもしれない。

しかし、「錯誤」を放置したままの時間の経過は、タイに味方しなかった。これには、日本のとの関係に抜きには語れない、タイにとっての「失地」の回復運動が深く関係している。


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