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カンボジアから見た領土認識

(前回はこちら。目次相当の導入部はこちら

1.クメール帝国の栄光

以下は、11世紀から14世紀初頭にかけて栄えたクメール帝国の最大版図(13世紀初頭前後)の説明図である。ただし版図は、境界線も曖昧であり、「影響力がこんなに凄い時もあった」という過去の栄光の投影である。

奇しくも15世紀後半に最盛期を迎えたタイ(アユタヤ朝)の最大版図とほぼ重なる。

誤解してはいけないのは、現代のような領域国家ではなく、各地の有力者と朝貢関係を結べば、その先の主従関係も含めて勢力範囲と見做しているに過ぎない点である。

中央政府が官吏を派遣して中央集権型で統治している訳でなく、各王間の力量に基づく個人的な主従関係で領域が規定される為、王が変わる度に勢力範囲が変化する。

年代を追いながら勢力範囲の変化を見る場合、地形自体の変化も見逃せない。コーチシナ(メコンデルタ)を例にとると、クメール帝国から独立したスコータイ王朝(シャム族として初めての独立王朝とされる)が勢力を伸ばした13世紀後半においては、同地域一帯は、まだ大小の島々からなる海のままであった。人の居住域は河の流れに沿って自然に展開され、穀倉地帯のように闘いによって勢力争いをする地域ではなかったと考えられる。

こうした理解のもとにと、現在の地形図に過去の栄光を投影した冒頭の図を眺めると、なんとも言えない気持ちにならないだろうか?

2.クメール帝国の衰退

14世紀からのクメール帝国の衰退後、19世紀半ばに欧米列強が東南アジアに進出してくる前まで、カンボジアは、タイ(シャム)やベトナムからの圧迫や干渉に苦しんできた。

クメール帝国の解体は、15世紀に入り、1431年にアユタヤ朝の攻撃で首都アンコールが陥落した時に決定的になり、15世紀後半から16世紀にかけてアユタヤ朝の宗主権を受け入れることで確定したとされる。以降は、シャムに朝貢する属国としての扱いとなり、歴史の表舞台から降りることになる。カンボジアにとっての主体的かつ統一的な歴史を語ることの出来ない「暗黒時代」とも言える。アンコールワットは長期間に渡り放置され、17~18世紀においては、全くといってよいほど独自に語れる歴史が無い(記録が見当たらない)ことも、カンボジアが力を失ったままであったことを示唆している。

まったくの余談であるが、日本におけるカンボジアの名は、通説として野菜の「カボチャ」の語源とされるが、実際にはカンボジアとは無縁で、カボチャは中南米原産のウリ科の野菜である。日本には16世紀の半ばにポルトガル船によって初めてもたらされた。

19世紀に入るとベトナムで阮朝が成立し、クメール人が多く住むコーチシナ(メコンデルタ)を支配下に置き、入植を進めるなど勢力を拡大した。タイ(シャム)の属国となっていたカンボジアのアン・エーン王の王子がバンコクに人質に取られていたこともあり、王の死後、反シャム感情を抱える王子が帰国してアン・チャン2世として即位すると、ベトナム側に付いてタイ(シャム)を影響を排除しようとした。この動きは、カンボジアが却って両国の干渉を招くことに繋がった。

3.列強パワーの下で

そんな中、インドシナ半島に領土拡張の野心を持つフランスがカンボジアの国王を助ける振りをして1863年に保護国化した結果、インドシナ半島の植民地化の歴史が幕を開ける。国家主権の概念を理解出来なかった同時のカンボジア国王をうまく騙し、保護国化に関する条約に署名させたというのが実態であったらしい。

タイ(シャム)のカンボジアに対する優越的な関係は、朝貢関係や王子の人質差し入れ強要による属国扱いから、欧米諸国に倣った明示的な宗主権に切り替えていたが、1867年のシャム=フランス条約の締結により放棄された。

いずれにせよ、カンボジアはフランスの力を借りて、曲がりなりにも周辺国からの圧迫をかわし、現在の自国の領土を領域として保全してきたとも言える。

歴史的な経緯を踏まえた、タイとカンボジア両国の領土認識を、それぞれざっと見たところで、現在も両国間で大きな「しこり」を残す、プレアビヒア領有権を巡る国際司法裁判所の判決について、次回触れる。

(3)「プレアビヒア領有権を巡る国際司法裁判所の判決」へ


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