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タイから見た領土の喪失と一時的な失地回復

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欧米列強が進出して来る前までは、タイ(シャム)は、カンボジアの宗主国との認識の下で自国の勢力範囲とみなしてきた。しかし、19世紀後半にカンボジアがフランスの保護国となると、フランスからの圧力を前に、暫時、領土を割譲せざるを得なくなった。以下の「タイの領域喪失」図は、18世紀から20世紀初頭にかけて、英仏の圧力に応じて暫時領土を割譲していった領土の変遷図である。

先にも触れたが、第二次世界大戦中、日本と軍事同盟を結び、枢軸国側についたタイは、仏領インドネシア連邦を構成するカンボジアに侵攻した。

実際の戦況はフランス側が優勢だったようだが、仏領インドシナ北部に進駐していた日本の斡旋のもと、1941年3月11日、ドイツ占領下のフランス政府であるヴィシー政権との間で結ばれた東京条約によって、1904年、1907年の条約でカンボジア(仏領インドシナ)に割譲した「失地」を回復させることに成功した。

プレアビヒアはもちろんのことアンコールワットがあるシェムリアップの手前までが版図に組み入れられている。特に、穀倉地帯バッタンバン平野を巡っては、10世紀以降、タイ(シャム)とカンボジア(クメール)は争奪の歴史を繰り返してきた場所であった。

争奪の対象が、現代のように石油・ガス・鉱物といった天然資源ではなく、穀倉地帯であるという点が、日本の戦国時代や江戸時代同様、コメを中心とする農本時代であったことを端的に表しているとも言えるだろう。

経済力を主に農業生産に頼るカンボジア(アンコール王朝)が、15世紀以降、海上貿易を通じて富と物資を蓄えることに成功したタイ(シャム)のアユタヤ王朝の前に、勢力を次第に後退させていったのは歴史的な必然と言える。

なお、1941年の東京条約によって「失地」を回復した時の「戦勝」を記念して建てられたのが、バンコクにありスカイトレイン(BTS)の駅にもなっている戦勝記念塔である。記念塔は、仏領インドシナ連邦との戦争に勝利したことを記念し、戦いで戦死したタイ陸海空軍兵士を慰霊している。記念塔の台座の上には戦死したタイ人兵士の像が祭られている。

しかしながら、この「戦勝」は、最終的に連合国側が勝利したことにより、無に帰してしまう。フランスは第二次世界大戦後、戦時中に割譲したカンボジアの領地の返還するよう迫り、タイは、最終的に1946年11月17日、1941年の条約を無効とするワシントン条約を締結し、領地返還に合意している。

タイがフランスの要求を受け入れた最も大きな要因は、フランスが軍事侵攻による実力行使をすると同時に、国連の安保理常任理事国の立場を利用して、タイに返還した領土を再獲得しないかぎり、タイの国連加盟申請に対して拒否権を行使すると威嚇したからである。

タイは第二次世界大戦中、日本と軍事同盟した枢軸国側であったが、タイは望まない軍事同盟だったとするとともに、軍事同盟の書類上の署名に不備があったとして「無効」を宣言した。また、取り返した「失地」の最終的な放棄は、実際には、連合国側に敗戦国扱いされないための「高度な譲歩」でもあった。

しかしながら、事実上の敗戦国側の陣営にありながら、戦前からの領土を無傷で保全し、敗戦国扱いも逃れるという離れ業を成し遂げたのは、タイだけである。まさに、タイの外交上手の賜物と言えよう。


次回は、第二次世界大戦後の日本の撤退と、第一次インドネシア戦争後を経て独立したカンボジアにとってのプレアビヒア領有権問題について、当時の国際情勢や国内状況を踏まえながら取り上げたい。


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