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自由からの逃走に関する超個人的見解

自由と責任は表裏一体

「自由からの逃走」とは哲学者フロムの代表作で、ざっくり言うと、一見望ましく思える"自由"の状態では、それぞれの自主性が重んじられるがゆえに責任や孤独が重くのしかかり、耐えきれなくなった人々はむしろ"自由"を放棄し、権力に身を委ねるようになってしまう、的なことだ。


「一切自責」自らに拘わる裁量を認識する

この考え方はとりわけ人間関係で悩んだときに役立つように思う。自分の言動の責任が自分にあるというのは割とすんなり受け入れられる。しかし、もし自分に降りかかった災難が、他人の言動をきっかけとするものだったらどうか。

例えば、友人A氏に突然拒絶され、あとから別の友人B氏がA氏に私の悪評を言っていたことを知るとする。そのとき私はB氏のことを大変恨めしく思うかもしれない(その悪評が事実か虚構かに拘わらず)。
しかし、確かにきっかけを作ったのはB氏だが、このとき根本的な責任は本当にB氏にあるのだろうか。

A氏が事の真偽を私に確かめなかったのは何故か。すんなりと悪評を信じたのは何故か。これらは言うまでもなく私とA氏の間に信頼関係がなかったことが問題であり、これこそがより根本的な問題だ。

この考え方は単に「他人のせいにせず、自分に厳しくあれ」ということではない。自分自身に拘わる裁量は自分にあり、だからこそ責任があり、そこに責任と表裏一体の自由があるのだと再認識することができる考え方である。


例外はある

とはいえ流石に例外はあると思っている。ならば「"一切"自責」ではない。矛盾にはそっと目を瞑って続きを綴る。

例えば未就学児やご老人についてだ。信号無視して自転車とぶつかってしまった未就学児や、息子を助けたい一心でオレオレ詐欺被害に遭ったご老人に対して「問答無用!一切は自責である!」と言うのはあまりに非情、血も涙もない。


信号無視といえば…

元サッカー日本代表トルシエ監督は、日本にきて一番ショックだったのは、明らかに安全なのに誰も信号無視をしないことだと言ったとか言わなかったとか。自ら判断して行動しないという国民性の現れだという旨の主張である。
この場で私が「そうだそうだ!安全ぽかったら行って良し!」と大手を振って公言することは避けるとするが、トルシエ監督の感覚には概ね賛同である。ルールへの態度が盲目的というのは確かに感じる。極端かもしれないが、車が来ていても青信号だったら進んでしまいそうな危うさがある。ちなみに私の小4の担任は、車通りの少ない道だったらむしろ率先して信号無視し、「車来てないねんから渡りなさい!」と言う人だった。先生がトルシエ監督と同じことを考えていたかはわからないが、少なくともトルシエ監督になじられる類の人ではなかったということだ。



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