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Vanillaトレイル


 楓のくるぶしは、ちいさく尖っている。
 靴下からはみ出たそれはわたしをふやけさせるには充分で、きっとこの笑顔ははしたなく溶けているにちがいない。
 プレゼントしたばかりのスニーカーに楓の足がおさまる。ネイビー✕白の巻き上げソールが、昨夜の名残りを健康的な彩りで上書きするのを見て、うれしいようなさみしいような気持ちになる。
 行かなければいいのにと思いながら、楓の首に鼻をうずめる。ほんのり温まったヴァニラを吸いこんで、わたしは観念する。

 いってらっしゃい。

 洗い物は後回しにしてベッドにもぐりこむ。この香りに、もう少しだけひたっていたい。もう少しだけ。日曜の朝、楓のいないベッドは広い。

 

❅ ❅ ❅

 

 まばたきを我慢して玉ねぎをきざみつづける。いつでも、この瞬間がわたしを強くする。次々に持ちこまれる見合い話をことわって母とケンカした日も、前の彼女と別れたときも、わたしは包丁をにぎっていた。何かをきざんでいる間だけは忘れられるから。
 まぶたのきわの涙が5mm角をゆがんで見せる。考えたくないのに、なんでわたしは楓の好物を作ってるんだろう。なんで玉ねぎの薄皮はすべるんだろう。玉ねぎ、セロリ、人参、きのこ。時間をかけてたっぷり4色の山を作りながら、わたしは泣いた。
 雨の土曜日、楓はまだベッドにいる。

 

 昨夜、声をかけても、楓はなかなか寝室にこなかった。それがわたしの気持ちを波立たせていることはあきらかで、こんなふうにわたしを征服してしまう彼女に腹が立つ。彼女はこのところ様子がおかしい。

 彼女が夜勤じゃない晩は、たがいに髪を洗い、たがいに髪を乾かすことにしていて、昨夜もそうだった。たわいもない会話もちょっとしたじゃれ合いも、いつもどおり。ちがったのは、お風呂あがりに乾杯してからだった。ビールを持ってソファにうつ伏せになった彼女は何を話しかけてもうわの空で、ときおり何かをスマホに打っては画面を見つめ考えこんでいる。

 本人には自覚がないけれど、楓はモテる。男性からも女性からもこどもからもワンコからも。
 化粧っ気がなくショートカットでボーイッシュ。なのに、ふとしたときに楚々とした色気が香る。日々あるく量も半端ではないから、細くきれいな筋肉がついていて、姿勢もボディラインも美しい。
 看護師という職業がらか感情のコントロールがうまくて、他人に対する態度は常に落ちついている。情に厚くて情にもろいのに、ふだんは表に出さない。ところがお酒がはいると突然、彼女の人たらしな愛らしさがだだ漏れる瞬間がやってくる。長いまつ毛のしたの濡れた瞳に捕獲されるのは、きっとわたしだけではない。

 付き合いはじめてからも、何度お声がかかったことだろう。おかげで、わたしは気が休まらない。呼吸器内科のドクターからは「ともだちとのルームシェアなんかやめて、僕と付き合わない?」ってお誘いがあったらしいし、去年の誕生日には後輩ナースから女性用ブリーフをもらって、困惑しながら帰ってきた。
 職場ではペアのリングもペンダントトップにしているから、男よけにも女よけにもならない。いっそのこと、リングの代わりに「成約済」の派手なタグをつけたいと言ったら、楓は「いいねぇ。私、似合うよ、それ!」と笑いとばした。けっこう真剣なんだけどな。

 ソファの楓に何かあったの?と声をかけたとき、彼女は画面から目をはなさずに、ううん別に、と答えた。また後輩からの恋愛相談かな。話しかけてもうわの空で目が合わない。挙げ句のはてには、いいよ先にベッド行ってて、と彼女は言った。
 ベッドの右側は広くて、秒針の音はやけにうるさい。パジャマの下に仕込んだ新しいキャミソールは、寝返りをうつとひんやりする。時計の針がてっぺんにきたら伝えたいことがあるのに、楓は忘れてるんだろうか。

「ううん、別に。」
 楓の声を思い出して、自分の肩をそっと抱いた。
 わたし、馬鹿みたい。

 

 目覚めたとき、楓が隣にいてほっとした。猫のようにすみっこで申し訳なさそうに丸まって眠っている。彼女の肩に布団をかけて、そっとベッドを抜けだした。今年も午前中にクール便が届く。それまでに着替えていなければ。今日が土曜でよかった。

 9時半。階段を上がってくる聞きなれた足音に、そっとドアをあける。別にチャイムが鳴ってもかまわないのだけれど、夜勤のある楓が眠っている時の習慣だった。
 重いダンボールをあけると、じゃがいもと玉ねぎにアスパラと冷凍ホタテ、金色に煮詰めた甘夏ママレード、楓の好きなおかずがいくつか、そして楓の大好物のベビーチョコレートの3種詰め合わせと、封筒が入っていた。楓は毎年モカホワイトだけ選って食べるから、詰め合わせよりモカホワイトだけでもいいのだけれど、お母さんはたぶん知らない。バターサンドやストロベリーチョコはこちらでも手に入るけれど、モカホワイトは特別だった。

 毎年、楓の誕生日に届く特産物クール便。それを見越して、今日のメニューは決めてあった。
 早速、玉ねぎを洗ってみじん切りを始める。他の野菜も刻んだらローリエを入れたオリーブオイルで炒めて、味をととのえる。フライパンで焼き付けたスパイスとあら挽きの牛肉とに赤ワインをふって、ブラックペッパーとローズマリーとココアパウダーで香りをつける。野菜と肉を合わせたら、ホールトマトを入れて煮詰めていく。じゃがいもをマッシュしてバターと牛乳で味を整えたら、ひと休み。

 昨夜を思い返すと、何だか楓の好物を作っているのがむなしくなってくる。何をたずねても、そっけなくて会話にならなかった。男子?女子?と聞いたら、なに言ってんの、そんなんじゃないからって彼女は言った。今までだったら、帰りに一杯飲んで済ませてきた話なんだろうけど、そんな逃げ方をされると不安になる。
 後輩かな。誰だろう? 楓のいる混合病棟にこの春配属されてきた新人は、甘え上手でちいさくて一生懸命で可愛いって言ってたな。胸のすみっこが、ちりっとする。女どうしって、これだからイヤだ。
 ちいさく泡立つ鍋のふちを眺めながら、わたしもくつくつと煮詰まっていく。

 おはよ。
 1mmの爽やかさもない声で、楓が起きてくる。アニメのキャラクターみたいなぼさぼさ頭を見て、思わず吹き出してしまう。
 10時間遅れのおめでとうを口にすると、楓がうしろから抱きついてきた。彼女の身体は赤ちゃんみたいにあたたかい。
 いいにおいだね。何つくってんの? あ、待って。当てる。んんん・・・
 脇腹をかすめる指先と寝起きのかすれた声に、わたしの何かが反応する。
 あ、ほら、お母さんからアスパラとかジャムとかいつものチョコも届いてるから、電話してあげて。お手紙も入ってたよ。

 うわ、マッシュポテト! よっしゃ! わかった!と楓は少年のように笑って、耳にキスすると離れていった。彼女はまったく悪びれない。

 首のよれたTシャツにスウェットパンツに寝ぐせ頭。全然かっこよくないのに、愛おしい。ずるいなぁって思う。さっきまであんなにムカついていたのに、こんなんじゃ許せてしまう。

 

 一度だけ、楓のはたらく姿を見たことがある。忘れ物を届けにいって、夜間通用口の守衛室の前で待っていた。エンジ色のVネックとパンツで颯爽と歩いてくる楓は凛としていた。長い手足、バランスのいい眉、長いまつ毛。よそいきの笑顔。のびのびスウェットの普段と変わらないのは、化粧っ気のない肌だけ。

 母の言葉を思い出す。
 今はイビキかきながら寝てるけど、結婚前はお父さんかっこよかったのよ。結婚したら、いちばん素敵なところを見られないんだもの。会社の人たちはきっと見てるのに。結婚って損だわ。

 たしかに病院で見た楓はかっこよかった。同棲すると、家での顔しか見なくなる。昨夜みたいに微妙な空気になったときも、もやもやを抱えたままで次の朝をむかえて、やっぱり寝ぐせを愛おしいと思ってしまう。
 いっしょに暮らすというのは、そういうことだ。
 でも、損じゃないよ。こんな楓を見れるのは、わたしの特権だから。
 結婚という形には、まだなれないけれど。

 鍋の音がくつくつからパチパチに変わったタイミングで、火をとめる。最後に数滴の醤油とウスターソースで味をととのえて、グラタン皿にミートソースを敷いた。マッシュドポテトでフタをして、フォークで斜めのチェック柄に模様をつける。あとはオーブンで焼き目をつけて、サラダとバゲットを準備するだけ。
 楓の楽しげな話し声が聞こえてくる。

 

❅ ❅ ❅

 

 チリは南半球だからオリオン座は夏に見えるのかな?と言ったら、たしかに夏っぽいデザインだねと言いながら、楓は金属のキャップをねじって開けた。脚のないワイングラスに深紅の液体がゆれて、わたしたちは乾杯した。特別な日の特別なメニュー、買い置きのワイン。ノヴァスはあまい香りのわりにさっぱりとしていて、濃厚なコテージパイによく合う。もったいないからちびちび食べる!と宣言して、彼女は完璧な角度でスプーンを口にはこんだ。長いまつげが頬に影をおとして、わたしはまた見とれてしまう。

「ねぇ、きのうの人、誰だったの? 新人ちゃん?」

「何のこと?」

「きのう寝る前さ、誰かとLINEかDMかしてたでしょう?」 

「してないよ? ・・・あぁ! そういうことか。誤解だよ、誤解」

「誤解?」

「ねぇ、それ、やきもち? 妬いてくれんの?」

 楓はおかしそうに笑うと、わたしの脚の内側をつま先でゆっくりと撫であげた。よく知るかわいた感触のなかに、アクリルのような人工的でなめらかな引っかかりを感じて、わたしはそれをつかまえた。

 

❅ ❅ ❅

 

 ナイトテーブルにグラスを置いて、くちびるを重ねる。こぼれた吐息のヴァニラが鼻腔を満たして、わたしはその香りを追いかけた。楓のありとあらゆる先端を外側から順にたどってゆく。右手でふくらはぎの内側を粟立てながら、左手でもう一度かかとをつかまえてつま先を眺める。
 さくら貝、ピンクゴールドのラメ、さくら貝、さくら貝、さくら貝。
 可憐に彩られたそれがいじらしくて、わたしは足の甲からくるぶしにくちびるを滑らせる。楓は息をのみ、足指は空をつかんだ。

 彼女のペディキュアを見るのははじめてだった。UVライトで硬化させるとジェルネイル状になるシールタイプのもの。楓は職業がらほぼメイクはしないし、ネイルもしない。ストッキングではなくて靴下にナースシューズ。わたしにしか見せないつま先を、内緒でそっと彩りたかったらしい。昨夜食い入るように見ていたスマホは、ネイルシールを扱う手順を説明したブログや動画で、ベッドで驚かせようと思ったら先に寝ちゃってたんだと彼女は口をとがらせて言った。ボーイッシュな外見で、スカートも穿かない楓の可愛らしい告白に、愛おしさがこみ上げる。
 わたしのTシャツの内側のするりとした手触りに楓は声をあげ、乱暴にTシャツを脱がした。今度はわたしがにやりとする番だ。

 馬鹿だなぁ、わたし。勝手に誤解して勝手に怒って。
 ふたりとも、たがいを少しでも驚かせようと、この時間を楽しませようと演出をしただけだったのに。

 

❅ ❅ ❅

 

 かすかなアラーム音に楓はベッドから降りて、そっと寝室から出ていった。
 まどろみながら、彼女の動きをトレースする。
 湯を沸かす間に、かわいた食洗機の皿をかたづけ、冷凍庫からバゲットを出してトースターに入れ、珈琲をドリップする。フライパンを出して、ベーコンを焼いて、卵をボウルに割った。
 さぁ、そろそろだ。

 ねぇ起きて。もうすぐ食べられるよ。

 わたしはおりこうに食卓について、バター香るオムレツを運ぶながい指を盗み見る。楓はお皿を置くと、その手でわたしの髪をくしゃっと撫でた。楓は食べたら仕事に出かけてしまう。

 プレゼントしたスニーカーはボーイッシュな楓のスタイルによく似合う。靴下に包まれたさくら貝を想像して、わたしはとろけてしまう。
 彼女を見送って、わたしはシーツに染みこんだヴァニラにダイブする。

 もう少し。もう少しだけ、この香りに浸っていたい。
 日曜の朝、楓のいないベッドは広い。





 この作品は、坂るいすさんの #仮面おゆうぎ会 の参加作品です。
 いろいろと反応を頂いたので、あとがきを書くかも(未定)。



ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!