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もしもあのとき目が醒めなかったら、娘は・・・

 はじめに言っておくわね。
「これは実話です」

 でもさ、この一文を目にすると、急に胡散くさく思えてくるのはどうしてかしらね。ま、いいわ。実話は実話だもの。すこし前に界隈でエッセイのフィクション成分の是非についてのtweetを見かけたけれど、実体験だからね、もちろんありのままに話すつもりよ。

 ついこの間、春風怪談にリクエストを頂いたので、この話を書いてみようと思って。怪談? どうかしらね。でも、わたしにとっては、これもとてつもなく怖かった思い出のひとつよ。



 たしか娘が7歳か8歳くらいの出来事だと思う。いつ頃だったのかは忘れても、あの夜のことは忘れられないわ。いま思い返しても身の毛がよだつ。

 ずいぶんと冷えた真夜中のことよ。真っ暗にして眠っていたわたしと娘ふたりの寝室で、ふと目が覚めてね。いや、その晩が特別ってわけじゃないのよ。寒くなるとね、あるじゃない。お小水に目覚めてしまうこと。いつもと同じように、完全に覚醒してしまわないように、わたしは暗闇のなか廊下や階段の灯りはつけずに階下へ降りていったの。さすがに座りそこねると悲惨だから、トイレだけは灯りをつけて用を足したわ。そしてトイレを後にした瞬間、聞こえちゃったのよ。

―――ぴちょん・・・・・

 背筋がぞわぞわした。いましがた水を流したトイレではなくて、暗闇のほう。

―――ぴちょん・・・・・

 やだ、水栓がきちんと締まってないのかしら。暗闇に一歩踏みだして、わたしは凍りついた。



 思えば赤ちゃんの頃からなのよね、あの子がやたら呼ばれるのは。
 出先から車で帰ってくるとき、必ず火がついたように泣き出す場所があったのよ。大きな国道から自宅への道へ曲がるための側道で、しょっちゅう白バイが隠れてる取締ポイント。それまでずっと後部座席のベビーシートですやすや眠っていたのに、ここに差しかかった瞬間、100%泣くのよ。100%は誇張じゃないわ。本当に100%。しかも手がつけられないくらいの泣きかたで。

 このポイントから家までは車で5分くらい。あまりの泣き叫びかたに運転してても気が気じゃなくて、車を路肩に寄せて抱っこして語りかけても、おっぱいを含ませようとしてもどうにも泣き止まないの。こちらが冷や汗出てくるくらいの尋常じゃない泣きかたよ。もちろん、おむつが濡れているとかじゃなくて。たしか、3つくらいまで続いたかしらね。
 毎回だったから数えてないけれど、たぶん何十回も経験したと思うわ。だからね、当時も何かあるとは思ってたの。娘に・・・というよりも、その場所にね。

 

 時が経って、あの子が小学校に上がる頃からかしら。わたしとあの子はふたりで同じ部屋で眠ってたの。すっかり眠っている真夜中にね、なんだか気配がして目が覚めることが何度もあって。
 寝室のドアの開く音がした瞬間、毎回、ダダダダって娘が全力で走り出すの。走り出すと言っても、ちいさな家なのよ。ドアから続く廊下は3mくらいかな。その先に何があるかというとね、階段よ階段。それと窓。さいわい1段下がったところが踊り場で、180度折り返す階段だからね、気配とともにわたしが娘を追いかければ、なんとか落ちる前に捕まえられる。でも、振りはらおうとして真剣に暴れるの。ちいさい身体なのに、すごい力でね。
 怖かった。もしもわたしが気づかずにそのまま走りぬけてしまったら、正面の壁に激突するか、階段を転がり落ちるかもしれなかったもの。



―――ぴちょん・・・・・

 背筋がぞわぞわした。いましがた水を流したトイレではなくて、暗闇のほう。

―――ぴちょん・・・・・

 やだ、水栓がきちんと締まってないのかしら。

 いや、ちがう。
 この音・・・天井の結露がバスタブのお湯に落ちる音だよね。
 もしかして、バスタブの湯を捨てわすれたのかも? 

 やけに意識がはっきりしてきて、寒気がする。洗面所のドアは半開きで中は暗くてバスルームも真っ暗で ぴちょん・・・て音がまた鳴って半開きのドアの向こうのバスルームに気配がして気配がして気配がして灯りをつけてわたしは凍りついた。






 水を張ったバスタブのなかに、娘が座っている・・・






「どうしたの?! 大丈夫? なんで? なんでパジャマ着たままお風呂入ってんの?」

 思わず叫んだ。わたしのあまりの剣幕に娘は目を見開き、泣き出しそうな顔で言った。

「わかんない・・・ぜんぜんわかんないよぉ・・・」






 あわててバスタブに手を入れると、けっして温かくはないけれど水でもなくてね。すぐにバスタオルを出して娘を拭いて、着替えさせて抱っこして。気がついたら膝ががくがく震えてたわ。きっと怖かったんだと思う、わたしもね。

 なんだかよくわかんないけれど、生きてて良かった。気づかずに眠ってて、朝、バスタブに浮いてる娘を発見するんじゃなくて、ほんとにほんとにほんとに良かった。誰かが守ってくれてるなら、全力でお礼をいいます。ありがとう。



 娘が東京へ引っ越してちょうど2ヶ月が経ったんだけれど、この前、電話をかけてきた娘が言ったのよ。

「今の部屋に住んでみて、あらためて思ったんだけどさ、やっぱり実家うちってなんかいるよね。いい人か悪い人かなんてわかんないけど、やっぱ誰かいるなって。前からひとりでお風呂入ったりひとりで寝るの怖いって思ってたけれど、今の部屋だとぜんぜん感じないんだよね。不思議と」

 そうなの? そうなのか。
 実はね、わたしも誰かの気配を感じるときがあるの。それを見かけるのはたいてい料理を作っているときで、LDKから玄関へつづく引き戸の向こう側を、白っぽい光みたいなものが横切っていく。ふっと気になって引き戸を見てしまったこと、何度となくあるんだよね。
 気のせいかって思ってたんだけど、誰かと住んでるんだね、きっとわたし。ふふ。

 なんにせよ、娘をあのとき連れていかないでくれて良かったわ。
 だって、いまね、あの子とっても楽しそうなんだもの。

 

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今回のお話はこれで終わりよ。
このお話を書くきっかけになった春風怪談は、こちら。
怖い話が苦手なひとは、読まないほうがいいと思うわ。本当よ。


ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!