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見えなくなるまで手を振って -誰かのなかで生き続けるというのなら➀

「これは燃えないから入れられないんだって。だから『うたに渡して』って預かったの」

叔母が母に託したという白い封筒のなかを覗いた瞬間、胸の奥底に隠したコップがひたひたになるのを感じる。
何かことばを発したら一気にあふれてしまいそうで、私は黙ってうなずきながら、色あせた革のバッグにその封筒をしまった。
104歳の祖母が“看取り”状態になって、3日が経とうとしていた。

それから1週間。
祖母が旅立ったあの日から、今日で2年になる。

 

 

「うたちゃんのおばあちゃん、小さくてかわいいね〜!」
こどもの頃から、何度となく言われたことばだ。

祖母は小さい。もちろん年を重ねて縮んだのだろうけれど、私が小学生だった頃も充分に小さくて、身長は140cmくらいしかなかったと思う。
馴染みの美容室で洗髪して結い上げてもらう髪と、笑いジワしか刻まれていない白くてまぁるい顔、マシュマロのようなお腹と細い手足。愛用していたグログランのリボンがついたパンプスは、21cm。まるで、こども用の靴のような可愛さだった。

海老芋の煮物からスペインの焼き菓子まで美味しく仕上げるお料理上手で、40年以上薬剤師として働き続けた“職業婦人”、それでいて物腰はやわらかく、いつもにこやかで、和装も洋装もおしゃれ。
聴き上手で、もてなし上手。
私にとって、自慢のおばあちゃんだった。

こどもの頃から、私が帰るときにはいつも手を振って見送ってくれる。
路線バスが、父の車が、角を曲がって見えなくなるまで、ずっとずっと。
幼い私は窓に張りつき、手を振りこたえた。
いつだって涙を浮かべながら。

 

 

大恋愛の末に結ばれたひとつ年下の祖父を見送ったのは、祖母が85歳を迎えた春。
それは、当時妊娠6ヶ月の私が退職した日のことだった。

長年、公私に渡って多くの学生や卒業生と交流を深めてきた祖父には、告別式も含めて弔問が後をたたなかった。
私は仕事に飛び回っている母たち3姉妹に代わり、その後のいっさいがっさいを買ってでた。
こうして、ちょうど暇になるはずの出産までの数ヶ月は、祖母と過ごす日々となった。

 

県境の大きな橋を渡り、祖母の家へと車を走らせる毎日。
ふたりで役所や銀行を回り、様々な手続きを終わらせても、まだまだ仕事はある。
戦後すぐに建てた小さな家の、さらに小さな2畳ほどの掘りごたつダイニングにふたりで座り、ノートパソコンを開いて芳名帳と御花料やその後のやりとりをデータ化したり、関係各所に電話したり、カタログをめくってお返しの品の手配をしたり、お礼の葉書を書いたりと、やることは山積みだった。

「うた、ちょっと休憩しよう。美味しい羊羹いただいたのよ。虎屋の羊羹!」と、はずむ声で祖母が湯を沸かす。
静岡で生まれ育った祖母の淹れるお煎茶は、甘くとろりとした雫が舌を転がる絶品で、虎屋の羊羹以上に私の大好物だった。
羊羹を食べ終わると、「何だかしょっぱいものも食べたいね」とおかきが出てくる。
甘さとしょっぱさの、無限ループ。

こういう時間は祖父がいた頃から全然変わらない。
私たちはずっとこうやって、おやつを食べながらとりとめのない話をする幸せなひとときを過ごしてきた。
友だちの話、部活の話、恋の話、就職活動の話、結婚の話・・・この頃はおなかの赤ちゃんの話、そして生まれてからは子育ての話に、うまくいかない結婚生活の話や再就職の話も。
私のその時々の友だちとも会っていたから、もしかしたら母よりも祖母のほうが私のことをよく知っていたかもしれない。

この頃も、私が帰るときには必ず見送りに出て、祖母は私の車が角を曲がって見えなくなるまで手を振っていた。
また明日もくるのに、その姿をミラー越しに見ると、何だかせつなくて涙が浮かんでしまう。

 

その夏、私は長男を産んだ。
私が祖母を訪ねる代わりに、祖母が初曾孫の顔を見に遊びにくることも増えた。
うだるような暑さのなか、祖母は祖父の残した広い庭の手入れをし続けた。
家も離れも小さいけれど、200坪ちかい庭は祖母ひとりの手には余る代物で、抜いても抜いても草は生えるし、四季折々を楽しませてくれた梅も薔薇も金柑も柿も、消毒に実の収穫に掃除に剪定に・・・と季節季節で手がかかった。
この家には跡継ぎがいない。3人の娘はいずれも嫁に出てしまっている。
ひとりで頑張り続けた祖母は、家をたたむことを決め、それを祖父の一周忌の席で発表した。

そして、私の実家にほど近いマンションの10階に、部屋を買った。

ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!