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海原に架ける

 いつの間にか風が乾いてきましたね。空が高い。うすくうすく引きのばされた雲を茜色に染めて、陽が富士山の向こうへ落ちてゆきます。薄紫から深い藍へと続くグラデーションの果て、高層ビルのすき間から、大きな大きなお月さまが顔を出します。17階のバルコニーはずいぶん涼しくて、わたしは羽織った藤色のカーディガンに、時間をかけて左腕を通しました。

 こんな宵は、懐かしく思うのです。
 あなたの日に焼けた、香ばしい手のぬくもりを。

 

 

「ただいま帰りました。たまちゃん、ちょっとええか? 表へ出てこられる?」
「はい。すぐ参ります」

 正二郎しょうじろうさんが玄関からこんなふうに呼んだのは後にも先にもあの時だけで、わたしは何事かともんぺに前掛まえかけのまま飛び出したのを覚えています。

 
「どうかなさいましたか」

 下駄をつっかけて勝手口から通りへ出ると、彼は戦闘帽を胸に夕空を見上げていました。まぁるい眼鏡にすいっと通った鼻すじ、形のよいくちびると、とがった喉仏のどぼとけ。正二郎さんの横顔は端正で、つい見とれてしまいます。

「ちょっとだけ、散歩に行かんか」
「今からですか? 夕餉ゆうげの支度できとりますが」
「うん、今でないといかん」

 彼はわたしの前を早足で歩いていきます。置いていかれないよう小走りで後を追うと、歯の擦りきれた下駄がしゃこしゃこと音を立て、小石が足の指に絡まりました。

「どこへ行きんさるんですか。そんなに急いで」
「ギンノヅカや」
「え? なんておっしゃったの」
「まぁええ」

 2本目の筋を曲がって、お稲荷さんの横から丸山へ入ります。とたんに行く手が暗くなり、虫の音と落ち葉のくだける音が心細く響きます。ズックを履いてこなかったことを後悔して、ギンノヅカと口のなかでつぶやいた瞬間、正二郎さんは立ち止まって わたしの手を取りました。

 丸山は家の裏手にある背の低いこんもりした山ですが、春に嫁にきたばかりで登ったことがありません。暗い山道をゆくと耳もとを虫の羽音が横切って、思わずつないだ手を強く握ります。数分登ると木々がなくなり、急に視界がひらけました。

 突然あらわれた銀世界に、わたしは息をのみました。まだ細いすすきの穂があたりいっぱい、風になびいています。黒い木々に囲まれたすすき野原は、青白く輝いています。

 淡い紫から藍色につながる空の低いところに、まぁるいお月さまが浮かんでいました。すこしだいだいがかった色の濃い月。

「正二郎さん、生まれてはじめてかもしらんです。こんなに大きな月」
「帰り道、今夜は十五夜やったと急に思い出してな。珠ちゃんをここへ連れてこようと急いで帰ってきたんや。すまんな。飯の支度が済んどるに」
「ええんです。きれいな場所に連れてきてもらって。すすきもお月さんも本当にきれい。おおきに。ありがとうございます」

 正二郎さんは手を離し、わたしのほつれた髪をすくいました。耳をかすめた彼の手のぬくもりに、わたしは思わず自らの手を重ねあわせます。ほのかに煙草とインクが香って、わたしは大きく息を吸いこみました。顔を上げると、彼のまつげの先に月の光が留まっています。視線が絡まった瞬間、その大きな瞳に吸いこまれそうな気がしました。

 彼は頬に添えた手をあわてて下ろすと、目をそらして言いました。
「せっかくの飯が冷めてしまうな。はよ帰らんと」

 

 

 孫がテレビの横に置いていった白いスピーカーのランプが緑色に点滅して、Aledaアレーダが喋りはじめました。この子はいつも急だから、驚いてしまいます。

洋平から,メッセージが届きました.

 最近の家電は本当に便利です。話しかけるだけで、エアコンやテレビをつけたり消したり、ニューヨークの孫と簡単にやりとりができるのですから。

「アレーダ、洋平のメッセージを読んで」

9月21日の夜,日本時間の18時半頃からおばあちゃんの白寿のお祝いをすることになったよ.
母さんや博志おじさんや高志たち家族とか,孫もひ孫も勢揃いだから,おしゃれしてね.
当日の昼までに,招待のメッセージ送ります.
スタッフさんにメッセージを見せて,設定してもらってね.
わかんなかったら,僕にメッセージ送ってください.
スタッフさんに説明するから,笑顔/手のひら
お料理はお部屋に届くから,夕飯作らなくていいからね.

「アレーダ、メッセージ送って」

誰にメッセージを送りますか?

「洋平」

わかりました.
洋平にメッセージを送ります.
内容はどうしますか?

「洋ちゃん、お誘いありがとう。
難しいことはわからないけれど、楽しみに待っています。
ここのスタッフさん達は、本当にいいかたばかりです。
からだに気をつけて、お仕事頑張ってね」

 

 

 銀之塚へ出かけた日の夜半よなかのことです。
 玄関の引き戸をたたく激しい音に、正二郎さんと目が合いました。あわてて寝間着の胸をかき合わせて、玄関へ向かいます。飛び起きた彼も帯を結びながら出てきました。隣の柴犬がけたたましく吠えています。

 すりガラスの向こうのカンテラの灯りに、悪い予感がよぎります。どうか、森さんじゃありませんように。ねじ鍵を回し、祈りながら戸を引きます。
 無表情で立っていたのは、やはり森さんでした。こんな顔、見たことがありません。

 

「召集令状が届きましたので、お届けにまいりました」
 押し殺した声で一気にそう言うと、森さんは首にげたかばんから紙を取り出しました。
「おめでとうございます」
 森さんの語尾は震えていました。わたしはどこか他人事のように、その光景を見ていたように思います。いくら仕事とはいえ竹馬ちくばの友に赤紙を届けるなんて、森さんに課せられたのはなんと残酷なお役目なのでしょう。「ご苦労さまでした」とわたしが頭を下げると、正二郎さんが口をひらきました。

「とうとう来たか。なぁ、おまえ、ちょっと細ならへんか。ちゃんと食っとるか?」
「おう。おかげさまで昼も夜も大忙しや。飯食う暇も惜しんで、お国のために働いとるわ」
 声を殺してつぶやいた森さんの目が、カンテラの灯りで光りました。正二郎さんの手に、赤紙が渡されます。

「なぁ、芳雄。俺なぁ、おまえで良かったと思うとる。ありがとな」
 正二郎さんは森さんの肩に手を置きます。
 森さんは帽子のつばを引き下げ、肩を震わせながら帰っていきました。

 あの夜のことは、今でも忘れられません。半年にも満たない ままごとのような結婚生活の、天国と地獄をいっぺんに味わった日ですから。

 

 一週間後、正二郎さんは親戚やご近所から盛大に見送られて出征しました。集合地は京都です。二ヶ月を過ぎたころ、一度だけ彼は家に帰ってきました。南方へ出発するという挨拶のために。しばらくは葉書のやりとりをしていましたが、検閲でところどころ黒塗りされたビルマからの長い封書を最後に、手紙は途絶えました。

 本格的な本土空襲が始まった昭和19年の冬、死亡告知書という紙が配達されました。正二郎さんはビルマで亡くなったのだそうです。何が起きて亡くなったのか、ビルマのどんな場所で亡くなったのか、何もわかりません。正二郎さんのいた隊が1個師団すべて壊滅していたと聞いたのは、戦争が終わってからのことでした。
 お骨も遺品も遺髪さえ何ひとつ帰らなかった。正二郎さんは紙きれ1枚になってしまいました。

 疎開先からもどると、わたしは森さんの口利きで役所で働きはじめました。生活をいろいろと心配してくれた彼に請われて、わたし達はやがて夫婦めおととなり、3人の子に恵まれました。80過ぎに森を見送るまで、様々なことがあったけれど、おだやかで幸せな暮らしでした。
 でも、あの十五夜のできごとは、森とも子ども達とも一度も話したことはありません。

 いつのことだったか、学校から戻った子ども達が「今日はお月見だから、すすきとお団子飾るんだって」と言っても、わたしはすすきを飾ることはできませんでした。うつくしい満月とすすきを見たら、きっとあの夜を思い出してしまうから。

 

 たった一度だけ。森が子ども達に買ってきた地球儀を、夜中にひとりで回したことがありました。
 直線距離で4,500km。大海原のはるか向こうにその国を見つけました。人差し指でそっと触れると、ビルマは指先に隠れてしまいます。この指の下のどこかに、正二郎さんが眠っている。
 わたしは目を閉じて、小さく息を吐きました。

 

 

珠江たまえさん、準備ができましたよ」

 差し出されたタブレットを受け取ると、ドーナツ型の懐中電灯の光が目を刺します。まぶしさに目を細めると、画面の向こうに孫たち家族が見えました。思わず右手を振ろうとしたらタブレットが滑って、あわてて右手で押さえます。相変わらず左手は痺れていて、あまり力が入りません。

「珠江さん、まだね、お孫さんたちには珠江さんが見えてないの。ちょっと待ってくださいね」
「あら、そうなの? テレビ電話とは違うのかしら」
「あ、珠江さん、カーディガン。風が冷たかったかな。お部屋のなかにしましょうか?」
「そうね。入ります。これ、落とすといけないから。ねぇ、あのね、こうやって教えてくださるから助かるわ。伊藤さん、ありがとう」

 微笑む女性の名札を確認してから、声をかけます。17階の担当は4人。この2年で顔は覚えたけれど、名前をうっかり忘れてしまうと申し訳なくて。
 伊藤さんはダイニングテーブルにタブレットをセットすると、わたしの背中と椅子のあいだに、クッションをはさんでくれました。

「それじゃあ、今から珠江さんのお顔が映って、声もみなさんに届きますからね。はい、どうぞ」

「おばあちゃーん!」
「こんばんはー!」

 8つの窓のなかに、千葉の博志夫婦も、横浜の麻美子夫婦もいる。ニューヨークで働いている洋平も、ほかの孫たちの家族も。こんなにたくさんの家族がいっぺんに顔を見ながら話せるなんて。

「洋ちゃんたら、今、何時なの? 明るいわね」
「今は朝の5時半だよ。起きたばっかりだから、ほら、下はパジャマ」
 脚を上げてストライプのズボンを見せた洋平に、子どもたちがどっと笑います。

 麻美子が話しはじめました。

「おばあちゃんが今月で99歳になるし、孫たちもさいわいリモートワークで家にいるというから、せっかくだからお月見を兼ねたおばあちゃんの白寿のお祝いにしました。みんな、お月見セットのお弁当は届いてるかな?」
「はーい!」
「あ、お団子! いいなぁ。ニューヨークにも届けてくんないかなぁ。僕、このあと仕事だから飲めないし」
「洋平はまたこっちに帰ってきたときね」

「さぁ、リモートだけど、おばあちゃんの白寿とみんな元気で集まれたことに。カンパーイ!」
「カンパイ! すぅちゃんはジュース!」
「あーたんも!」
「おばちゃんはねぇ、辛口の純米酒ですよ。とっておきの!」
「それ、なんてお酒?」

 あぁ、みんな楽しそう。わたしも久しぶりにみんなの顔を見ることができて、心がはずみます。
 この高齢者マンションに引っ越してきた頃は、週末になるたびにいつも誰かが遊びにきてくれていたけれど、昨年の春からはずっと電話かメッセージか動画で、こうやって集まって話すなんてできなかったのですから。

 夜なのに明け方の、海の向こうの洋平とまで、こんなふうに画面越しにつながってみんなで話すことができるなんて。
 インターネットってよくわからないけれど、なんて素敵なんでしょう。

 

 こんな便利な機械があの頃にもあったなら。
 海原のかなたで軍務についていた正二郎さんに、あの銀之塚の美しいすすきを見せることも、いっしょにお月さまを見ることだってできたのに。たまに届くお手紙を待たなくたって、顔を見て、想いを伝える時間を持てたはずなのに。
 まぶたの裏に浮かぶ正二郎さんはいつまでも若いままで、胸が痛い。

 

「おばあちゃんのお部屋から、お月さまは見える?」
 ひ孫の声に、はっとしました。
「見えますよ。ちょっと待っててね」
 わたしはテーブルにつかまって、立ち上がりました。

 

 あの頃のように下駄で山に登ったりはできないけれど、ちょっと待っていてね。あなたに月を、このまんまるなお月さまを見せたいのです。
 右手と痺れた左手でタブレットを支えて、わたしは窓辺へ向かいます。高度を上げたぶん、すこし小さくなった月は、冴えざえと白さを増しています。

 あぁ、涙でうさぎがにじみます。
 ねぇ、正二郎さん。
 月がきれいですね、今宵も。



 

  

 
 

 

この小説は、#新しいお月見 コンテストに参加しています。

 

==2021.09.21.追記=====

#新しいお月見  第2回お月見コンテストにて、この作品に「三日月賞」をいただきました。
お読みくださったみなさま、#新しいお月見 運営スタッフのみなさま、ありがとうございました!

ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!