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それを「創作」と呼ぶならば、毎晩わたしは #真夜中インター

  すこしでも時間があれば書いていたのに、書けなくなってしまった。理由はいくつか思い浮かんでいて、分けるのをしくじった刺繍糸のようにもやもやとそれらが絡み合っているからなのだと解っているけれど、誰かに見られるところで書く内容ではない気がするので、こころの奥にそっとしまっておくことにする。

 それでも、わたしにとって書くことはたいせつな作業で、何かにたとえるならば、SNSで見かけた宝石みたいなボンボンショコラというよりは、こころを込めて研いで圧力鍋で炊いたごはんのようなものかもしれない。
 日々の暮らし。日々の食事。わたしの血となり肉となる何か。

 そうか。そうだね。
 書くことは、わたしを作ることかもしれない。

 物語を書いているわけではない。エッセイなのかもわからない。写真を撮ってことばを添えてみたり、この間みたいに野球コラムに挑戦してみたり。これを「創作」と呼んでいいのかはよくわからないけれど、やっぱりこうやって書いていると、わたしがわたしをすり鉢であたって、塩と中性洗剤と無水エタノールでDNAを取りだして、細く長く連なったらせん状のそれををくるくると巻きとってから紡いで編んで、わたしを形にしているような気になるから不思議だ。

 リハビリのようにPCの前に座って、真夜中にキーボードを叩いている。思えば、まだまだダイヤルアップ回線だった頃も、幼子が眠った夜にこうやって息をひそめて、わたしはわたしをせっせと形作っていたような気がする。わたし自身にもよくわからない「わたし」を、ひとり見つめて再構築する時間。

 それを「創作」と呼ぶならば、毎晩わたしはきっとわたしを創作していたんだろう。また明日、わたしが呼吸を続けるために。


 インターネットの大海原を時も忘れるほど漂って、この街に流れついてもうずいぶん経つ。大きな大きな街の片隅に間借りして暮らしてみたら、あることに気がついた。
 この街には、どうやらわたしのように真夜中に自分の再構築を始める人たちが大勢いるらしい。そればかりか、自分とはちがう新たな世界を構築する才能あふれる人たちにも出会った。彼らの創りだす世界に憧れ、夢中になってその構築物に潜り、触れて、味わい、聴いて、歩いた。


 いつしかことばを交わすようになった創作の友たちが、気持ちと作品を持ち寄って新たなものを産み出すらしい。

インターネットは、時間を選ばない。場所を選ばない。
たまたま出会った、自分だけに特別なことば。夜を越えるのに、誰かの文章が必要なときだってある。
そのたった数行が、誰かの道を変えることだってある。
インターネットの創作は、すっと息が入って世界が広がるような「自分だけに特別」な魅力がある。

読んでいくうちに、だんだん自分でも書きはじめた。書いてるうちにいろんな人とつながりができて、今こうしてまた書いている。たのしい。

「真夜中インター」を創刊します。

真夜中インターズ  野やぎさんのnote


 書けなくなってこの街から足が遠のいていたのだけれど、この本が創刊されると聞いて、そして、何やら今週末までこの街で文化祭が催されていると教えてもらったから、久しぶりに真夜中の再構築にチャレンジしている。

 どうやら、再構築の100本ノックらしき楽しそうな企画もあるらしいけれど、それは間に合うかどうかわからないから、これまたリハビリのつもりでゆっくりやっていこうかなって思っている。


 なんかね、ほら。
 やっぱり
 書くって、たのしいね。

 真夜中インターネットで。


ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!