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連載日本史㊻ 弘仁・貞観文化(1)

平安遷都から九世紀末までの文化を、嵯峨・清和天皇時代の年号にちなんで、弘仁・貞観文化と呼ぶ。唐風文化と呼ばれるほどに、中国・唐の影響を強く受けた文化であった。特に仏教における密教の興隆と神仏習合は、現世利益を肯定する日本的宗教観の礎となったと思われるのである。

(gooニュースより)

平安初期の二大高僧といえば、最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)である。804年の遣唐使に随行して仏教を深く学んだ二人は、翌年帰国し、最澄は比叡山延暦寺を拠点として天台宗を、空海は高野山金剛峰寺を拠点として真言宗を開いた。天台宗は法華経を中心経典とし、一切皆成仏、つまり全ての人間には仏性が平等に備わっており、信仰と修養によって誰もが仏に成り得ると説く。真言宗は大日経・金剛頂経を中心に、加持祈祷を重んじ、秘密の呪法によって即身成仏も可能だと説いた。いずれも日本古来の神祇信仰と結びつき神仏習合の風潮をもたらす。現世利益の肯定、多神教、呪術的性格、それに山岳信仰と、両者には多くの共通要素があったため、互いに結びつきやすかったのであろう。神社の境内には神宮寺が建てられ、寺院の境内には鎮守神が祀られた。いわば神と仏の現世利益祈願・相互扶助ネットワークである。

比叡山延暦寺(世界遺産オンラインガイドより)

一方、従来の仏教勢力との関係においては、天台宗は対立路線、真言宗は協調路線をとった。最澄が旧勢力の南都(奈良)仏教界と対立したのは延暦寺における戒壇設立の奏上に南都諸宗が反対したからである。当時の仏教界では正式な僧となるためには南都東大寺の戒壇で受戒しなければならなかった。つまりライセンスの許認可権を南都仏教界が独占していたわけだ。最澄は「顕戒論」を著し、南都諸宗に反論した。奏上から四年後、ようやく延暦寺に戒壇設立の勅許が下りた。最澄の死後七日目のことであった。以降、延暦寺は仏教教育の中心となり、後の鎌倉新仏教の母胎となっていくのである。

両界曼荼羅(東寺HPより)

もともと呪術的性格の強かった真言宗は「東密」、最澄の弟子である円仁・円珍により密教化した天台宗は「台密」と呼ばれた。巨大化した天台宗内部では円仁派と円珍派の対立が起こり、円珍派は園城寺に拠点を移して「寺門派」を、円仁派は延暦寺に残って「山門派」を形成する。火を焚く護摩壇や輝く金剛鈴などの魅力的な小道具を用いて、無病息災・悪霊退散・増益増収などの現世利益を祈る密教の儀式は、貴族社会で大流行した。特に教王護国寺(東寺)は東密仏教の根本道場となり、密教の世界観を表した両界曼荼羅が収められた。 密教は当時の絵画や彫刻にも大きな影響を与えている。絵画では空海の遺品であるといわれる神護寺の両界曼荼羅や曼殊院の不動明王像、彫刻では教王護国寺の五台明王像や観心寺の如意輪観音像などが密教美術の代表作である。いずれもミステリアスな雰囲気を漂わせており、秘密の儀式に魅了された当時の貴族たちの心情が伝わってくるようだ。

観心寺の如意輪観音像
(Wikipediaより)

それにしても、いくら共通点が多かったとはいえ、全く異なるルーツを持っていたはずの神祇信仰と仏教を習合させてしまった日本の宗教界の融通無碍な柔軟性には驚くばかりである。山岳信仰と仏教・道教のハイブリッドである修験道(しゅげんどう)の成立も、そうした柔軟性の賜物であろう。神前で読経する僧たちや、山に籠って修業しながら神にも仏にも祈りをささげる山伏の姿は、一神教の宗教観を持つ人々の目には、六本の腕を持つ如意輪観音像よりもミステリアスに映っているのかもしれない。


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