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オリエント・中東史㊴ ~第三次中東戦争~

1967年6月、エジプトによるアカバ湾封鎖への対抗措置として、イスラエル軍がエジプトに侵攻。第三次中東戦争が始まった。第二次中東戦争でスエズ運河の国有化に成功して優位に立ちつつあったエジプトとアラブ諸国に対して、イスラエルは虎視眈々と反撃の機会をうかがっていたのだ。奇襲攻撃により、わずか3時間でエジプト空軍基地を破壊したイスラエル軍は、シナイ半島・ガザ地区を制圧し、北方ではシリア領ゴラン高原とヨルダン領ヨルダン川西岸地域、さらにヨルダンの支配下にあった東エルサレムを次々と占領した。この間、わずか6日。電光石火の侵攻であった。イスラエル側が、いかに用意周到に準備していたかがわかる。

イスラエルの占領地拡大は更なるパレスチナ難民を生み出した。その人数は100万人を超える。彼らの多くは隣国ヨルダンへと逃れ、全人口の半数以上を難民が占めるという異常な事態となった。イスラエルは国際社会から非難を浴び、国連でも撤退決議が採択された。だが、イスラエルは決議を無視して占領を続け、ユダヤ人の入植を進めることで領土拡張を既成事実化しようとした。領土を奪われたアラブ諸国側では、敗戦によってエジプトのナセル大統領の求心力が低下し、1964年に結成されたパレスチナ解放機構(PLO)が戦争を契機に過激化して各地でテロを繰り返すようになった。PLOの活動拠点はヨルダンの難民キャンプであったため、米国寄りの路線をとる国王側との軋轢が生じ、1970年にはヨルダン内戦が起こった。結果としてPLOはヨルダンから退去して本拠地をレバノンのベイルートに移し、ヨルダンは他のアラブ諸国から孤立することとなった。他のアラブ諸国も、それぞれの政治的思惑により、イスラエルに対する共同歩調をなかなか取れずにいた。そういうわけで、イスラエルの領土拡大は、周囲からの批判をよそに、既成事実化していくことになるのである。

戦争によりエルサレム全市がイスラエルの統治下に入ったことは、イスラム諸国にとって大きな衝撃だった。ムハンマド昇天の地にに建てられた岩のドームを擁するエルサレムは、ユダヤ教・キリスト教の聖地であるとともに、イスラム教の聖地でもあったからだ。イスラエルはエルサレムを自国の「首都」と称したが、国際社会はそれを認めず、日本も含め、ほとんどの国が大使館をテルアビブに置き続けた。イスラエルの占領地からの撤退を求めた国連決議は今もなお生きている、という国際社会の意思表示であった。

ところが2018年になって米国のトランプ大統領が突然、アメリカ大使館のエルサレムへの移転を断行した。実は1990年代に米国議会は大使館のエルサレム移転決議を挙げていたのだが、歴代大統領は歴史的経緯を考慮して執行しなかったのである。しかし、国内の強硬派の支持を優先するトランプ氏は、極端なイスラエル寄りの姿勢を示し、国内外の反対を押し切って大使館移転を強行したのだ。これは国連決議の重みを蔑ろにし、中東での争いの火に油を注ぐような蛮行である。事実、大使館移転に伴う抗議行動の鎮圧で、50名以上の死者が出たという。歴史に学ばない短慮が招いた災厄だと言えよう。

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