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オリエント・中東史⑪ ~パルティア~

イラン系遊牧民によって建てられ、紀元前247年にセレウコス朝シリアから自立したパルティア(中国名:安息)は、約500年にわたってイラン高原を支配した。前238年に族長アルサケスによって王朝が開かれたため、別名をアルサケス朝ともいう。パルティアはアケメネス朝ペルシアやセレウコス朝シリアで採用されていたサトラップ(行政区)制を継承し、中央政府と地方勢力の均衡を保ちながら版図を広げていった。セレウコス朝シリアの滅亡後はメソポタミアにも支配を拡大し、ティグリス川沿岸のクテシフォンに遷都する。前1世紀には東方への勢力拡大を図るローマと対立し、ローマ軍の有力な武将であったクラッススを敗死させた。イラン系の遊牧民族によって建国されたパルティアは騎兵戦術に長けており、その機動力でローマの大軍を翻弄したのだ。

イランの伝統的な宗教であるゾロアスター教はパルティアでも保護された。一方でヘレニズム文化の流れを汲むパルティアでは、ギリシア風の文化も維持され、前2世紀にパルティア独自の貨幣を発行したミトラダテス1世は、その表面に「ギリシアを愛する」という意味の銘を刻ませたという。経済的にもパルティアは東西交易路の要衝にあたり、東洋と西洋の橋渡し的な立ち位置を保っていたと言える。

紀元後2世紀になると強大化するローマ帝国に次第に押されるようになり、王家の内紛もあってパルティアは次第に衰退していく。ローマ皇帝トラヤヌスやマルクス・アウレリウス・アントニウスの時代には、首都クテシフォンが二度にわたってローマ軍に一時占領された。こうした外圧と内紛で国力を消耗したパルティアは、226年にイラン系農耕民の建てたササン朝ペルシアによって滅亡に追い込まれたのである。

アケメネス朝ペルシア、パルティア、ササン朝ペルシアと、オリエントの古代史において、イラン系民族の存在感は大きい。現代においても、イランは欧米諸国と対峙しながら、中東地域の中でも独自の存在感を放っているが、その根底には、東西の十字路に位置し、アケメネス朝時代にはギリシア、パルティア時代にはローマ帝国という強大な欧州勢力とと互角に対峙してきた歴史的記憶があるのではないだろうか。

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