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連載日本史㊿ 摂関政治(2)

10世紀初頭の醍醐天皇の治世と10世紀半ばの村上天皇の治世を、それぞれの年号にちなんで「延喜・天暦の治」という。この時代は、摂政・関白を置かず、天皇親政が行われた時代として、後世の貴族たちから理想化されて語られたが、実際には、延喜の治は左大臣の藤原時平、天暦の治は同じく左大臣の藤原実頼によって導かれた、いわば律令体制の幕引きであり、次代の王朝政治・摂関政治への移行期であったと言える。それでも後世の摂関政治全盛期における藤原氏の権力独占を目の当たりにしていた貴族たちには、延喜・天暦の時代は他氏族にも立身出世のチャンスがあった良き時代であったように思えたのであろう。

延喜の治では、902年に荘園整理令を公布し、荘園の拡大を抑えようとしたものの不徹底に終わった。また、三代格式の最後にあたる延喜格式が編纂されたが、これが事実上最後の律令体制維持への試みであったと言える。律令制の根本原理であった公地公民の原則は、もはや建前だけのものと化していたのである。

皇朝十二銭(bk.mufg.jpより)

天暦の治では、奈良時代の和同開珎に始まる本朝十二銭の最後にあたる乾元大宝が鋳造されたが、流通は限定的であった。写真を見るとわかるのだが、朝廷発行の本朝十二銭は、時代を下るごとに材質・鋳造技術ともに劣化している。和同開珎と比べると乾元大宝はまるでおもちゃのコインである。貨幣経済は信頼がなければ機能しない。つまり貨幣流通の不振は、当時の政府の経済政策がいかに信頼されていなかったかを物語る現象にすぎなかったのだが、経済学の知識のなかった当時の貴族たちは祈祷によって貨幣流通の促進を神仏に願った。これでは貨幣への信頼が回復するはずはなく、日本はしばらく物々交換の時代に戻る。日本で貨幣経済が息を吹き返すのは、12世紀の宋銭の大量流入によってであった。自国通貨よりも外貨の方が圧倒的に信頼性が高かったのである。

古今和歌集仮名序(Wikipediaより)

経済政策では不振に終わった延喜・天暦の治だが、文化政策では見るべきものがあった。905年には醍醐天皇の勅命により、紀貫之らを編者として、最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」が編纂されている。951年には村上天皇の勅命で「後撰和歌集」が編纂された。藤原氏によって権力の中枢から締め出された他氏族たちは、文化の方面に活躍の場を求めた。延喜・天暦の治が後世の貴族たちに理想化されたのは、そうした面もあってのことだろう。

延喜・天暦年間の狭間にあたる朱雀天皇の時代には、藤原忠平が関白を務めた。この頃、東国では平将門の乱が、瀬戸内海では藤原純友の乱が起こっている。いわゆる承平・天慶の乱である。乱は935年から941年まで続いたが、いずれも鎮圧された。地方でこうした反乱が勃発したという事実も、時代の閉塞感を示していると言えよう。



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