見出し画像

連載日本史214 明治の文化(5)

政府の殖産興業政策の影響もあって、明治期の日本の自然科学の発展は、西洋からの実用的な科学技術研究の受け入れとその応用を主として発展した。医学の分野では北里柴三郎がドイツで細菌学の権威であるコッホに師事し、破傷風菌の純粋培養に成功。1892年に伝染病研究所を創設し、94年にはペスト菌を発見。彼の下で学んだ志賀潔は赤痢菌を発見した。彼らは後に北里研究所を設立し、日本細菌学の基礎を築いた。

北里柴三郎(Wikipediaより)

薬学では、高峰譲吉が麹菌から消化薬タカジアスターゼの創製に成功し、胃腸薬として商品化した。彼は副腎からのアドレナリンの抽出にも成功している。鈴木梅太郎は脚気予防に有効なオリザ二ン(ビタミンB1)を発見するとともに、グルタミン酸の製造、乳酸菌の研究、合成酒の発明など、生活に密着した応用化学の分野で成果を上げた。

鈴木梅太郎(Wikipediaより)

地震学では大森房吉が地震計を発明し、植物学では牧野富太郎が植物分類学を大成した。原子模型の理論を発表した物理学者の長岡半太郎や、地球の緯度の変化を研究した天文学者の木村栄など、基礎研究の分野で成果を上げた科学者たちもいるが、総じて日本の科学は応用分野に強かったようだ。西洋が200年かけて進めた近代化を数十年で成し遂げようとしたのだから、研究が実用重視に傾くのは、ある程度は仕方のないことだったのだろう。

エルヴィン・フォン・ベルツ(Wikipediaより)

科学をはじめ明治の文化の発展には多くの来日外国人が寄与していた。医学では「ベルツの日記」を残したドイツ人医師のベルツとホフマン、自然科学では大森貝塚を発見したアメリカ人モースやナウマンゾウの化石を発見したドイツ人ナウマン、農学では札幌農学校の教頭として"Boys, be ambitious."の名言を残し、内村鑑三や新渡戸稲造にも影響を与えたクラーク博士、建築では鹿鳴館やニコライ堂の設計に携わり、日本に西洋建築学をもたらしたコンドルなどが有名である。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)(www.hamakei.comより)

美術分野では、日本での西洋彫刻の基礎を築いたイタリア人ラグーザ、明治洋画の基礎を築いたフォンタネージ、明治天皇の肖像画を描いた銅版画家キヨソネ、そして岡倉天心とともに東京美術学校を設立し、日本古来の美術を高く評価してその復興に尽力したフェノロサなどがいる。文学では小泉八雲の筆名で知られるイギリス人ラフカディオ=ハーン、法学では憲法起草に関わったドイツ人ロエスレル、法典編纂に尽力したフランス人ボアソナード、地方制度の整備に尽くしたドイツ人モッセなど、とにかく来日外国人たちがいなければ、明治文化の発展はなかったと言えるほどの貢献度なのだ。

フェノロサと岡倉天心(butsuzoua.blogspot.comより)

夏目漱石は講演録「現代日本の開化」において、日本の近代化は外発的であり、それゆえに常に上滑りの不安がつきまとうと述べている。それは自身もイギリスに留学して精神を病んだ経験を持つ漱石の実感でもあろう。だが、たとえ上滑りであろうとも、西洋に追いつくために涙ぐましいほどの努力を続けていた明治の日本人は(漱石も含めて)立派なものだと思うし、彼らを支援した外国人たちも、その努力に応えようと力を尽くしたのだろう。それは一時的で不安定な関係ではあったが、互いに幸福な時間の共有だったのではないかと思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?