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連載日本史132 江戸幕府(7)

江戸幕府は秀吉の朝鮮侵略によって断絶していた日朝関係の改善にも取り組んだ。講和交渉の間に立ったのは対馬藩主の宗氏である。1604年、朝鮮から日本に使節が派遣され、二年後には朝鮮側から講和条件として日本が先に国書を送るよう宗氏に要請があった。講和を急ぐ宗氏は国書を偽造、1607年には朝鮮から日本に回答兼冊還使が派遣され、日朝国交回復が実現した。1609年には対馬と朝鮮の間で己酉条約が締結され、対馬を中継地とした日朝貿易のルートが確定している。その後、国書偽造が露見し、対馬藩の家臣たちが処分されたが、宗氏は幕末まで日朝間の外交・貿易の窓口としての地位を独占した。

日朝の間に位置する対馬(Wikipediaより)

日朝の国交回復により、江戸時代には朝鮮からの通信使が、将軍の代替わりごとに日本を訪れるようになった。通信使一行は、通訳・医者・楽隊・画家なども含めて約500人もの大所帯に及び、漢城(ソウル)から釜山・対馬・大坂・京都を経て江戸に至るまで、半年近くの日数をかけて旅路をたどり、日朝の友好関係を印象づけた。対馬藩を通じた日朝貿易では、銀や銅などが日本から輸出され、生糸や朝鮮人参などが朝鮮から輸入された。

江戸市中を行列する朝鮮通信使(Wikipediaより)

日朝の国交回復により、江戸時代には朝鮮からの通信使が、将軍の代替わりごとに日本を訪れるようになった。通信使一行は通訳・医者・楽隊・画家なども含めて約500人もの大所帯に及び、漢城(ソウル)から釜山・対馬・大坂・京都を経て江戸に至るまで、半年近くの日数をかけて旅路をたどり、日朝の友好関係を印象づけた。対馬藩を通じた日朝貿易では、銀や銅などが日本から輸出され、生糸や朝鮮人参などが朝鮮から輸入された。

江戸時代の日朝関係が概して良好であったのには二つの要因が考えられる。ひとつは互いに敬意を表明しながら適度な距離を保ったこと、もうひとつは貿易を通じたウィン・ウィンの関係を築いたことである。世界的に見ても、ギリシャとトルコ、イギリスとアイルランド、米国とメキシコ、インドとパキスタンなど、隣国同士の関係には問題が多い。距離が近すぎるのである。日朝両国の間に対馬という緩衝材を置いた江戸幕府の隣国外交は、功を奏したというべきだろう。もちろん相互の敬意の表明あってのことである。

島津氏の琉球侵攻(mapple.netより)

一方、当時は独立国であった琉球(沖縄)に対しては、露骨な侵略政策がとられた。1609年、薩摩の島津家久は3000の兵を琉球に侵攻させ首里城を占領。以降、琉球は薩摩藩の支配を受け、将軍の代替わりごとに慶賀使、琉球王の代替わりごとに謝恩使が江戸へ参府した。朝鮮通信使が御三家並の待遇を受けたのに対し、琉球使節は大名並の待遇とされ、独立国であるとはいえ、日本が琉球を半属国として見ていたことがうかがえる。

シャクシャインの戦い前後のアイヌ地域集団(Wikipediaより)

北海道のアイヌは、更に過酷な扱いを受けた。1604年、幕府は松前慶広に蝦夷地の交易の独占を許可する。松前藩は家臣に一定の河川流域(商場)を知行地として与える商場知行制を敷いたが、そこでの取引はアイヌにとって非常に不公平なものであった。1669年には首長シャクシャインのもと、アイヌの一斉蜂起が起こったが、シャクシャインは謀殺され、乱はまもなく鎮圧された。以降、アイヌの自立性は失われ、交易は和人の商人の手に委ねられ、松前藩家臣が運上金を受け取るという場所請負制度の導入が進んだ。

鎖国時代の対外貿易(東京法令「日本史のアーカイブより)

結果的に「鎖国」体制下の日本では、外に向けての四ヶ所の窓口が成立したことになる。オランダ・中国に対しては長崎の出島と唐人屋敷、朝鮮に対しては対馬藩、琉球王国に対しては薩摩藩、蝦夷地に対しては松前藩が門戸を占有した。一般の庶民には海外の事情を知る機会はほとんどなかったが、幕府はオランダ商船から提出されるオランダ風説書や、朝鮮通信使からの報告などで、それなりに海外の情報を得ていたようだ。中国では明が滅亡して女真族の清王朝が全土を支配し、ヨーロッパではイギリスを皮切りに市民革命が起こり始めていたが、日本はあえてガラパゴス化の道を選び、泰平の世を謳歌しつつあった。



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