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連載日本史89 鎌倉幕府の衰亡(2)

幕府だけでなく、朝廷でも内紛が相次いでいた。御嵯峨上皇の死後、後深草上皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)の間で対立が起こり、幕府が介入して、持明院統・大覚寺統が交代で皇位を継承する両統迭立(てつりつ)の原則が立てられた。膨大な皇室領荘園の相続争いも背後にあったものと思われる。

両統迭立(chunengenryo.comより)

1317年、持明院統の花園天皇から大覚寺統の後醍醐天皇への譲位にあたり、幕府の仲介によって文保の和談と呼ばれる調停が行われ、後醍醐天皇の即位は認められたものの、在位期間は十年と限定され、皇位継承順も次の次の天皇まで定められて、後醍醐天皇の子孫には皇位継承の見込みがなくなった。幕府にしてみれば、予め在位期間と後継者を決めておくことで、将来の揉め事の芽を摘んでおきたいという意図だったのだろうが、後醍醐天皇には強い不満を残すこととなり、結果的にそれが倒幕への動きにつながった。あまり先のことを考えすぎると、かえってうまくいかないものである。

後醍醐天皇は密かに倒幕計画を練ったが、1324年、計画が露見して側近の日野資朝が佐渡に流された。いわゆる正中の変である。この時は天皇自身は不問となったが、皇太子の邦良親王が自らの即位を要求して幕府に請願を繰り返すなど、朝廷内での内部分裂も顕著になっていた。二年後に親王が急死し幕府の裁定で持明院統の量仁親王が皇太子になると、後醍醐天皇は幕府への反発を一層強めるようになる。

青森・十三湊(rekihaku.ac.jpより)
赤矢印は舟の出入口

東北では、環日本海交易の拠点である十三湊(とさみなと)で、先住民族の蝦夷アイヌを巻き込んだ陸奥安藤氏の乱が起こっていた。鎌倉幕府最後の執権である北条高時は内管領の長崎高資に政務を丸投げし放蕩を重ねていたが、高資は対立する安藤季長と季久の両派から賄賂を受けていたため、調停は紛糾し、内乱の鎮圧は困難を極めた。幕府の腐敗と権威の失墜を象徴する事件であった。

正中・元弘の変関係図(rekishi-memo.netより)

1331年、倒幕計画が再び露見すると、天皇は武装蜂起に踏み切った。元弘の変である。反乱を鎮圧した幕府は量仁親王を光厳天皇として即位させ、後醍醐天皇を隠岐に配流した。しかし、後醍醐天皇の皇子である護良親王や、河内の悪党(新興武士)であった楠木正成(くすのきまさしげ)らが、天皇配流後も各地でゲリラ戦を行い、幕府を悩ませた。 「悪党」という名称は、あくまで幕府や荘園領主などの旧秩序側から見た呼び名に過ぎない。街道や河川の結節点に拠点を置き、広範な商品流通を掌握する悪党は、貨幣経済普及の申し子であった。つまりは、経済の変動に政治がついていけなかったということだ。幕府打倒のうねりは、もはや天皇の個人的な意志を超えて、時代の趨勢となっていた。


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