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連載日本史215 明治の文化(6)

明治の演劇界では江戸時代同様、歌舞伎が根強い人気を誇っており、河竹黙阿弥が文明開化の風俗を取り入れた新作を発表していた。さらに坪内逍遥らが西洋近代劇の影響の下に新史劇を創作するなど、歌舞伎界の革新が進められ、市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次らの名優が現れて団菊左時代を迎えると、新設された歌舞伎座が明治歌舞伎の黄金時代の象徴となった。日清戦争前後から新派と呼ばれる現代演劇も始まり、特に自由民権運動の盛り上がりに伴って社会風刺を盛り込んだ川上音二郎の壮士劇が人気を呼んだ。日露戦争後には、新劇と呼ばれる西洋近代演劇が盛んになり、坪内逍遥・島村抱月らが文芸協会を設立。松井須磨子主演でイプセンの作品などを翻訳上演した。また、小山内薫らも自由劇場を結成して翻訳劇や若手の戯曲の上演に取り組んだ。

松井須磨子と島村抱月(www.glomaconj.comより)

西洋音楽の摂取は軍楽隊に始まり、続いて伊沢修二らの尽力で、西洋の歌謡を元に作られた唱歌が小学校教育に導入された。伊沢は後に台湾での日本語教育の普及にも従事している。やがて官立の東京音楽学校が設立され、「荒城の月」や「花」の作曲で有名な滝廉太郎らを輩出した。

滝廉太郎(Wikipediaより)

明治の美術も官主導で始まった。政府は工部美術学校を設立して西洋美術の摂取に努めたが、1880年代には大きく方向転換し、工部美術学校を閉鎖して日本美術を主とした東京美術学校(東京芸大の前身)を設立した。これにはフェノロサや岡倉天心らの尽力もあったが、海外で日本画が高い評価を受けていたことも大きい。実際、ゴッホやモネら印象派の画家たちは浮世絵から大きな影響を受けていたし、明治初期に二束三文で外国人たちに叩き売られていた日本の美術品の数々が、海外で非常な高値で取引されていたのだ。外国人の方が日本の美術の価値に敏感に気づいていたのである。

歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」とゴッホの模写(mag.japaaan.comより)

日本画では狩野芳崖・橋本雅邦・横山大観らが、西洋画では高橋由一・浅井忠・黒田清輝・青木繁らが、彫刻では高村光雲・萩原守衛・朝倉文夫らが活躍した。1907年、西園寺内閣の文部大臣であった牧野伸顕の尽力で日本画・洋画・彫刻の三部門から成る総合芸術展である文展が開催された。文展はその後も回を重ね、大正期の帝展、戦後の日展へと続いていく。それは和洋を融合した明治の芸術の集大成でもあった。

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