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連載日本史237 太平洋戦争(1)

太平洋戦争開戦直後の戦闘では、日本軍は先制攻撃によって各地で連勝を収めた。日本軍は香港・シンガポール・フィリピン・蘭領東インド(インドネシア)・ビルマなどを次々と陥落させ、南太平洋の広大な地域を占領して軍政を敷いた。1942年には東条内閣は翼賛選挙を行い、政府推薦の候補に強力な援助を与えて当選させることで、事実上の独裁政権を打ち立てた。選挙後は唯一の政治結社として翼賛政治会が結成され、政権は軍部と一体化し、議会は政府すなわち軍部の方針に賛成するだけの機関に成り下がった。

太平洋戦争関係地図(yahooニュースより)

日米開戦後、政府は「支那事変」と呼称していた日中戦争も含めて、戦争の名称を「大東亜戦争」と呼ぶことにした。当初は自衛のためだとしていた戦争の目的を、戦線の拡大に従って、欧米列強の支配からアジアを解放して「大東亜共栄圏」を建設することだと、後付けで強弁したのだ。しかし実態は軍部に引きずられた資源確保のための戦線拡大に過ぎず、日本軍は戦争初期こそ植民地解放軍として現地で歓迎を受けたものの、日本軍が鉄・石油・ゴム・ボーキサイトなどの戦略物資を強制調達し、その実態が明らかになるにつれて、各地で反日感情が高まった。

日本が獲得しようとした南方資源(浜島書店「新詳日本史」より)

シンガポールでは、「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文司令官の下で、日本軍の手による現地華僑の大量虐殺が起こった。反日活動の容疑で殺された華僑は約5000人に上るというが、ほとんどが証拠もなく、外見や人相から適当に選別した人々を片っ端から殺害したという証言もある。ビルマでは、軍事目的で建設が行われた泰緬鉄道の工事に欧米人捕虜と現地住民を強制的に従事させ、苛酷な労働で多数の犠牲者を出した。フィリピンのバターン半島では現地捕虜が収容所までの100kmの距離を炎天下に行軍させられて16,000人が死亡するという「死の行進」事件が起こり、インドネシアのジャワ島でも強制連行による労働者の徴発と酷使が行われた。いずれも民族解放とは程遠い暴挙である。

バターン死の行進で死亡した捕虜たち(Wikipediaより)

華僑大虐殺の際に危ういところで難を逃れ、シンガポール独立後の初代首相となったリー=クワンユーは、自身の回顧録で、「日本人は我々に対して征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものだ」と述べている。また、当時の日本軍の軍政に対して、ホー=チ=ミンのベトナム独立同盟や、フィリピンの抗日人民軍などの抵抗運動が各地で起こった。これらの運動が戦後、自力での植民地独立に結びついたことを考えれば、皮肉な意味で日本軍の蛮行は結果的に民族自立への動きを喚起したという一面もあるかもしれない。情けない話だが…。

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