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連載日本史160 化政文化(2)

江戸時代の日本の教育水準は非常に高かったという。藩校や寺子屋、私塾などの教育機関の全国的な拡大によって、武士だけでなく、庶民にも学問への門戸が開かれていた。そうした教育の裾野の広がりを背景にして、江戸時代後期には多くの学者や思想家が生まれ、さまざまな書物が出版された。

日本古来の思想や古典作品を研究する国学では、荷田春満、賀茂真淵の流れを汲んで、本居宣長が「古事記伝」を著し、日本古来の文化の底流に「もののあはれ」を見出し、国学の基礎を固めた。塙(はなわ)保己一は江戸に和学公談所を設け、古代から江戸初期までの国書を集めた「群書類従」を編纂した。平田篤胤は神道に日本の思想の伝統を見出し、復古神道を唱え、幕末の尊王攘夷思想にも大きな影響を与えた。

主な国学者の業績(「世界の歴史まっぷ」より)

洋学の分野では、享保の改革で吉宗が漢訳洋書の輸入制限を緩和して以来、医学・天文・暦学・地理学など、実用的分野を中心として、海外の知識を積極的に取り入れようとする機運が高まった。西川如見は長崎で見聞した海外事情を「華夷通商考」にまとめ、前野良沢とともに「解体新書」を訳した杉田玄白は、その過程を「蘭学事始」に記している。医師の大槻玄沢は、江戸に芝蘭堂を開いて蘭学を広め、「蘭学階梯」を著した。宇田川玄随は医学書「西説内科撰要」を、宇田川棺庵はイギリスの化学書を翻訳した「舎密開宗」を著した。志筑忠雄は「暦象新書」で地動説を紹介した。やはり洋学の分野では、西洋の科学の発展に刺激を受けた理科系の学者が目立つ。

解体新書(コトバンクより)

日本全国を測量して歩き、「大日本沿海輿地全図」を作成した伊能忠敬は、役人としての職を退いた後に本格的な活動に入ったという。いわば定年後の人生二毛作である。精密機械のない時代に里程車や歩測で測地した彼の地図は、その正確さで後世の人々をも驚かせた。

伊能忠敬の日本地図(amasialand.comより)

一方で蘭学・洋学は幕府の保守層からは危険思想と見られ、しばしば規制・弾圧を受けた。オランダ商館の医師として来日したシーボルトは、長崎に鳴滝塾を開いて医学を教授したが、1828年に国外持出禁止の日本地図を所持していたということで追放処分を受けた。大御所時代末期の蛮社の獄では、渡辺崋山・高野長英らが厳しい処罰を受けている。

シーボルト(r-ijin.comより)

こうした学問の裾野の広がりは、多様な教育機関に支えられていた。官営の藩校・郷学では、長州・萩の明倫館、熊本の時習館、備前の閑谷学校などが有名である。民間の私塾では蘭医の緒方洪庵が大坂に開いた適塾、大坂の町人の出資で設立された懐徳堂、儒者の広瀬淡窓が豊後日田に開いた咸宜園、長州で吉田松陰が開いた松下村塾などが、幕末に向けて多くの人材を輩出した。福沢諭吉・大村益次郎・橋本左内らは適塾出身、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文らは松下村塾出身である。いわば私塾が、倒幕への助走機関となったのである。

江戸時代後期の教育機関(www.hita-k.orgより)

江戸後期の多様な学問の中でも特徴的なのは、石田梅岩が京都で開いた心学であろう。梅岩は自宅に講席を設けて、広く一般庶民の聴講を呼びかけた。商業行為の正当性を強調し、倹約・正直などの日常の徳目を説いた心学は、町人の哲学として幅広い支持を得た。

庶民に読み書きそろばんを教える寺子屋の数は江戸後期に急増し、十九世紀半ばには年平均開業数が300を超えている。庶民の教育ブームが起こっていたわけだ。私塾の多くは身分を問わず塾生を受け入れたが、こうした草の根レベルでの基礎教育があったからこそ、幕末から明治維新にかけての激動の時代を担う人材を輩出し得たのだと思う。何事も基礎が大切であり、社会の重要な基礎を担うのは、やはり教育なのである。

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