人間である

 ガザの惨状には、言葉を失う。目を覆いたくなる。人間とは何か、いのちとは何か、絶望の底から問われるように感じる。
 葬られるどころか、覆われもせず野ざらしにされたままの亡骸を、海外のニュースの映像で観て、愕然とした。そのとき、人間が人間であるとは、一つには、死者を弔うことではないか、と思った。
 亡骸さえ凌辱し蹂躙すること、されること。人間が人間性を失うこと。それが戦争なのだと、思い知らされる。人間はどれほど地に落ちるのか、落とされるのかと、暗澹とする。
 どんな死も尊い。どんないのちも尊い。人間は神の似姿として創られた、とも言われる。なのに、なぜ。
 いま、死も、いのちも、人間も、言葉も、軽んじられてはいないか。
 神は存在するのかと、嘆きたくもなる。しかし、いかなる死のかたわらにも、神はいたと信じたくもある。それは、せめてもの祈りでもある。

 「拾う」という字は、「手」を「合わせる」と書く。骨を拾うように、手を合わせるように、詩を書いていこうと思う。無言の詩を掬うように、できれば救うように。たとえ、わたしの奢りだとしても、手向けの花を編むように。
 それは、なすすべのない自分自身への慰みでもある。破壊衝動に加担しないための戒めでもある。

 言葉は非力である。一篇の詩が、破壊の抑止にはなるまい。
 一方で、言葉は無力ではない。一篇の挽歌は、死者、生者、ともに慰めうる。詩という座は、死者と生者が、ひとしく集える場になりうる。そこには、一つの架橋、一つの創造が、ありはしないか。言葉の〈ちから〉が、ありはしないか。

 わたしは、言葉をあきらめない。言葉本来の〈ちから〉を呼び覚まし、証していきたい。人間の言葉を取り戻したい。人間として人間であるために。

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